第一話    天使と獣その1/夢を追いかけて




 東京に出てきてからは、自己紹介してばかりだった。


 女子プロレスラーを目指すのは楽な道じゃない。


 あいさつ。あいさつ。あいさつ。自己紹介、自己紹介、自己紹介。


 地元の山口では、それなりに名門スポーツ校の柔道部だったからね。コネはある。先輩たちのなかには、プロレスラーになれた人が何人もいたし。


 私なら、なれると思っていた。


 まあ。


 プロレスラーになれた先輩たちの全員が、とっくに引退してしまっていたけれど。


 状況は悪い。


 コロナの最中だったから、プロレスの営業なんて普段以上にやりにくかった。感染症にはすごく気を使っている業界じゃあるけれど、日本全国がゴーストタウンみたいになっていた時期だ。だから、先輩たちに紹介されてもらった団体も、私を雇ってくれる余裕なんてない。


 あいさつに行っては、断られる。


 まさか眼にも見えないウイルスなんかを、これほど憎む日がくるなんて思わなかった。


 私たちの世代は、本当に運が悪い。


 どう考えてもショービジネスにとっては最悪の状況だよ。興行そのものがやれないんだから。格闘技もサーカスも、憂き目にあった。小説家志望のクズ弟の言葉が耳に残っている。「やめちまえよ。プロレスなんて、もうからないんだし」。


 ほんと、クズ弟らしい。


 自分は「小説家になる」だとか、夢のようなことを言っているくせに。


 考えてみてほしい。比較をお願いする。


 柔道で国体選手にも選ばれた私の夢は、あいつよりもずっと現実に近かったはずだ。壁を、あとふたつ乗り越えられたなら。オリンピックにだって出れたかもしれないのが私なのに。軽量級の柔道日本代表ってのは、つまり金メダリストってことなんだぞ。


 それにくらべて。クズ弟には何の実績もなかった。シロウトや学生向けの文学賞なんて、世の中にはいくつもあるだろう。そのどれか一つでも、取れたのか? ちがう。隆希は何一つ取れちゃいない。それは文才がないって証なんじゃないのか。それなのに。あいつってば、いつも強気である。


 腹が立つ。


 ぶん殴ってボコボコにしたいと、私に思わせる天才なんだよ。ほんと大嫌いだ。憎んではいないけど、本当に嫌い。双子で、生まれる前から一緒だったという現実を、神さまに書き換えて欲しいと願うほどには。


 でも。


 あいつの偉そうな言葉に対して、あそこまで腹が立ったから、東京に居座れたのかもしれない。父さんと母さんに、嘘をついた。大学には一度だって行かないまま、プロレス団体を巡る。「しばらくこっちに戻ってきなさい。大学の授業はネットでも受けられるんでしょう?」。「やだよ。独り立ちしたいの」。


 母さんに嘘をついたんだ。


 だから。


 縁を切られても当然だろう。


 ……いくつもの団体に足を運ぶ。あいさつして自己紹介して、何度も何度も何度も、不採用になった。「コロナがなければ、雇えたのに」。「あなたは顔もいいし、胸も大きい」。「柔道の実績も、十分なんだけどね」。


 あきらめそうになったとき。私にエージェントがついた。先輩の知人の知人……とにかく。プロレス団体に顔が利くっていう、芸能事務所の三十路女だ。眼鏡に笑顔。賢そうな詐欺師みたい。


 彼女は言った。「あなたなら、コロナがあけるころには、ちゃんと団体と契約できる。だから、その前に、しっかりと『整形』しておきましょうね」。


 アイドルや女優になるわけでもないのに?


 最初は戸惑ったけれど、考えればすぐにわかるよ。


 同じ身体能力の選手がいたとして、顔がいいヤツと、顔が悪いヤツ。「どっちが商品として価値があるのかなんて、言うまでもないでしょ」。


 平然と言われたから、そのせいでますます納得してしまったのかも。アイドルや女優やモデル。ああいう女たちって、もっと軟弱な考えしているのかと思っていたけれど。その認識は変わる。


 あいつらも、スゲー。


 何百万円も自分の貯金をはたいて、顔や体にメスを入れまくっているんだから。


 怖かったよ。私はね。でも。怖いほど、負けたくないと考えてしまう性格をしていた。


 知ってる?


 世界でいちばん強いボクサーは、師匠から習ったんだよ。「恐怖/フィアーと炎/ファイアは、よく似ている」。「敵だって怖がってるんだ。怖がらせてやれ。お前は、恐怖そのものになるんだ」。


 父さんと母さんを、また裏切った。


 顔にメスを入れられて、私は……前よりちょっと美人になったんだ。「過去の自分を殺したみたいでしょ。ショービジネスへの入り口に、あなたはようやく立ったのよ、水原佳奈ちゃん」。こいつって、悪魔とか死神みたいだと思った。


 それからしばらくして。


 私は女子プロレスのなかでは大手の団体と契約してもらえた。整形した結果なのかもしれない。私は純粋な田舎者ではなくなったけれど、強くなれた。夢を追いかける権利を勝ち取ったんだ。両親がくれた顔を、すこしだけ傷つけて。悪くないはずだ。もっと全身改造しているじゃないか。芸能事務所の手下になった女たちは。


 忘れるべきことを、アタマから追い出してやるために。死ぬほど練習に打ち込む。


 学生時代の柔道部の練習は、きっと自衛隊よりハードだったはずなのに。ここでは、それよりもきびしい。興行がないからって、そのぶん、練習に時間を割くことになったから。


 私たちの世代は……。


 先輩たちよりも、基礎がしっかりしていたはずだ。もちろん、ステロイドも打つ。今ならオリンピック選手にも勝てるかもね。どこのジムの、どこのコーチもヒマだ。だから指導しまくってくれる。プロレスの技術だけじゃなく、打撃もアクロバットも柔術もサンボも習う。国体選手は運動神経がいいんだよ。一通りはマスターしてみせた。


 やがて、コロナが終わると……ありがたいことに、すぐさまデビュー戦が決まる。なにせ、選手不足だったから。夢を追いかけていくには、そのときの状況はあまりにもきびしくて、先輩たちも同期も次から次にやめていった結果だった。


 私みたいな新人でも、対戦カードを組ませてもらえたことは……。


 呪わしいパンデミック・ウイルスがくれた、唯一の良いことかもしれない。父さんにも母さんにも、教えたかったけれど。できなかった。


 嘘の数が増えると、自由な身動きが取れなくなるから厄介だよね。大学にもいかず、整形してプロレスラーになった娘。まちがいない。ふたりは、私を誇りには思わないだろう。さみしがって、失望したはずだ。あの田舎者の医者夫婦は、すごく保守的なんだよ。ご近所にだって、言いたがらないに決まっていた。


 覚悟はしていたことだ。


 私の人生は、大きな秘密を抱えてしまっている。


 ……でもね。


 誰かに伝えたくなった。心の底からうれしかったから。「無理だって言われたけれど、叶えてやったぞ、夢。デビュー決定。私はプロになる!」。弟にだけはメッセージを送っておいた。両親には秘密にしろと釘を刺しながらも。


 文才のないクズは、返信の文章を書くのにも手間取ったのか。既読がついてから三日もノーリアクションだったから、この豪気なお姉さまも困惑していたよ。一人暮らしのさみしい部屋のなかで死んでいるのかもしれないと心配し始めたとき。ようやく返信があった。「よかったな」。


 今なら、わかる。


 ずっとくすぶるしかないあいつは、私のデビュー戦にさえ嫉妬していたんだ。双子であっても、家族愛以外の感情をもてる。ていうか、家族だからこそのネガティブな感情ってあるよね。


 あいつはやりたいことを何一つ成し遂げられていないまま。「よかったな」という短い文章を、劣等感で死ぬほど苦しみながら吐き出していたんだよ。生まれる前からいっしょにいたはずのヤツに、またひとつ離されるなんて。そんなの、苦しいに決まっている。


 でも。そのころの私は、気づけなかった。いそがしかったし、人生経験、足りてなかったかも。


 練習しまくって、古風なビラ配りもポスティングもする。SNSでも宣伝だ。あいさつ、あいさつ、あいさつ。自己紹介、自己紹介、自己紹介。『玲於奈』というリングネームが、生まれたときからの名前だと思い込めるほどに、努力を重ねたんだ。自己洗脳だ。


 たぶん。


 ショービジネスの初心者は、こうやって元々の自分を殺していく。


 荒々しくて、華々しい。


 玲於奈。レオ/獅子。猛獣みたいに、うつくしくて強い。田舎の少女から、プロの一員に変わり、ショーに出る。マジシャンもサーカス団員も、アイドルも女優も芸人も、同じだろう。自分を何か別のモノに作り変えて、たくさんのお客さんたちの前で演じる。


 がんばった。


 無我夢中で。鼻血も出した。そういうファイトは、本当はやらない方がいいはずだけれど、どこまでもはげしく体を動かすのが、私のスタイルだとわかった。動物になるんだ。可能なら、世界でいちばん怖いヤツに。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る