序章 洗礼その7/始まりの呪文
とにかく。
それらを、あの巨大な熊の腹に埋め込んだだけ。とんでもなくクレイジーな外科的手術を用いてね。さすがにメンタルの限界だよ。ワシは吐き気を催してその場に崩れ落ちた。それでも見た。死んだ胎児を見たくなくて、周りで薬物的な多幸感にひたっている母親や信者どもを見たくなくて。もちろん、魔女はぜったい嫌だ。
行き場をうしなった視線がたどりついたのは、すぐそばで横たわる、あわれな熊。目を閉じればいい? 冗談じゃない。闇こそが怖いんだ。正気をたもつためには、何か現実をにらみつけておきたいと本能的に判断していた。賢いガキだったよ、我ながら!
だから。
取り出された場所を観察している。ワシの生来の性質だな。やがて解剖学者になる男らしく、発見した。巨大な縫い糸が無数に熊の内側にあることを。「熊は改造手術を受けたんだ」と、そのときは誤認しちまったがね。9才なんだから、バカでもしょうがない。
……どれもこれもが外科的な処置さ。今ならわかる。あの太い糸は、内臓の位置を変えて固定するためのものだ。そうしてスペースをつくり出して、胎児たちを埋め込む。トリックだ。理解できても、晴れやかな気持ちになれるかまでは保証はできん。
もちろん異常なことだ。心を、狂わされる。一連のショッキングな出来事のせいで、ワシの脳はとっくに破壊されていた。信じるべきものが何であるのか、見失わせるには十分だろう。さすがは宗教どもだ。
……『改造された熊』は、当時のワシにショッカーの実在を信じるに至らせた。
不意にあたりをさがしたよ。悪の現場には、ヒーローが駆けつけてくれるものだから。とくに子供がいる場合は絶対だ。
どこにも仮面ライダーはいなかったね。ここは現実だから。でも、困ったことに恐怖と神秘の化身は、目の前で双子の死体を抱きかかえたまま、ショッカーどもを率いていた。祝って歌い踊る、おかしな信者どもの中心で、地獄の聖女はワシに近づいてくる。
……逃げられないかもしれない。
ワシは本当に、ショッカーの一員になってしまったのだとおびえた。声も出せない。ボロボロと大粒のなみだがこぼれているのに、声ひとつ。聞かれたくない。可能なかぎり何も知らせたくない。こいつらの一員には死んでもなりたくない。
だが。
聖女の腕には、ふたつの死……。
取り返しのつかないことに関わったことも理解する。今夜あったことを、口にはできないと。こんなことは誰にも言えやしない。警察にも、友達にも。だって、ワシもこのおぞましい儀式に参加していたのだから。つまり、ワシもショッカーだ。
怖くなる。「だまっておかなくちゃ」。このことを口にすれば、母親から罰をあたえられるかもしれない、ここにいる闇のなかで踊っている異常な百人からは、命を狙われるかも……周りの友達から気持ち悪がられるどころか、通報されたりリンチされたり……燃やされたり。
ああ。
なんていう、秘密なんだ。
ようやくワシは理解したよ。『逃げられなくなった』。その結論に達して、言葉にならない声をもらす。聖女はうれしそうだった。ふたつの胎児を双子のガキどもに渡すと、血まみれの腕で抱きしめてくれる。
血に混じった彼女そのものの香りは、いいにおいだ。やわらかい。どこかで自分は喜んでいる。性のめざめだったのかもな。こいつが初恋になるのかもしれない。それがまた、おぞましい事実だ。キスもされた。どれだけ、ワシの脳を壊せば気がすみやがる!
「ようこそ、少年。聖なる教団、『生命の秩序』に」
儀式の夜だ。
こいつはサバト、悪の大幹部が顔を突きつけ合うショッカーの定例会議、悪魔や魔女が飛び回るワルプルギス。邪悪な洗礼式。何でもいいが、ワシは善人どころか悪人さえも近づくべきでない場所に、どっぷりとつかっていた。
「さあ、たべましょう」
……『何』をか、だと?
想像しているものだろうよ。
食わされただけだ。ワシは悪くない。圧倒的に被害者じゃないか。虐待されているのはワシの方だ。それに五十年以上前だから時効ってものだ!
……熊だ。
熊のほうだよ。
本当だって。そんなにドン引きしないでくれ。ワシを責めるな。誤解をしている。ちがうんだ。本当だとも。このワシを信じたまえ!
「命はこうして、輪廻し転生し、蘇る。獣からヒトに戻り、またヒトの糧に。あなたのなかにも、命が融けていく。生まれ変わったの。よくかんで、食べてね。祈りながら。カチカチ、歯を鳴らすように力をこめて、あごを動かすの」
……でも、そうだな。これは永続性がある呪縛だった。一連の幻想的な儀式のあとで、『あんなこと』をさせられると、誰しも永遠に変わっちまう。変えられちまったんだよ。こいつは精神的で、魔術的で……つまり宗教的な『改造手術』だった。恐怖と神秘という魔法の手術道具たちで、ワシはすっかり改造されて、べつのなにかに……。
みんなで食った。
うちの母親も、もちろん。
……この教団は、とんでもねえ。
誰も逆らえるヤツなんていやしない。ひとつの町を完全に支配下において拠点としている。そこから、日本全国におぞましい悪の根を張り巡らせて、ワシの母親みたいな犠牲者どもを養分にして成長していった。
数々の残虐な犯罪をともないながら、どんどん発展していく。政治家をつくりあげ、犠牲者どもが働きアリのように奉仕することで異常な生産性をもつ工場まで開いた。月月火水木金金。安息日なんてねえ。ああ、デカい病院も、たくさんつくったよ。
まるで、ひとつの邪悪な小国家だな。この日本の内側に発生したガン細胞のように。科学と理性が支配するはずの現代文明を喰い破りながら浸潤し、大きな双子の群れを生み出していく……あちこちに町が広まりやがった。
それらが聖女の指揮で、いっせいに歯を鳴らす。カチカチカチカチ。よく訓練された豚の群れは、哺乳類の最底辺をつらぬいて虫けらになる。みんなで蟻のように、女王さまに奉仕し尽くすのさ。自分や家族よりも、巣と女王のために生きる。全財産も寄付してね。
恐怖と神秘による、絶対の統治だ。安心を得るためには、従順であるほか道などない。それにね、一度、心を改造されちまうと……そうするのが楽しくなりやがる。宗教ってのは、人と人を結びつけるものだ。神さまっていう接着剤で、合成動物/キメラみたいに、がんじがらめ。連中の喜びは、ワシの喜び……少なくとも、聖女はいつもうつくしい。
宗教は不自由をあたえるよ。だが、喜びってのは、およそ不自由から発生する。
親指を全力で伸ばして、そいつを交差させるんだ。両手の親指で、聖なる十字架をつくってごらん。そのあとで他の指も広げる。『ちょうちょ』の完成だな。君の手は、もう君の手じゃない。べつの生き物になった。大きな翼をもつ、キレイでかわいい蝶にね。親指の爪は、眼になって、君を見つめている。これを知っていると、どんなときでもひとりぼっちじゃない。
悪が発展していた。
誰もがこいつらの犯罪を見て見ぬふりをするしかないほど、強大な力を持たせてしまうまでに。すべては、サイアクの方向へと順調に広がっていたのさ。
……この異常なまでのカリスマをもつ聖女が、ワシのようにあわれな宗教二世のひとりに始末されるまでね。そうだ。この聖女も、あの日から二十年後には殺された。さんざんナイフで刺されたあとで、かわいそうに。首まで落とされたんだとよ。
なあ、わかるか?
どうしてだろう。
その勇者みたいな青年が、どうして聖女の首まで落としたのかだ。
殺すだけなら、ナイフで刺すだけで十分。うらみをぶつけるなら、何度も刺してやればいい。そもそも。聖女だけは信者にやさしい。殴らないし、お菓子をくれるし、絵本も読んでくれる。あわれな宗教二世どもを集めて食事会まで開いてくれた。彼女の作ってくれたカレーを食べればわかる。こいつはやさしいよ。リンゴの甘味たっぷりなんだ!
だから、そんな彼女にあんな殺し方をするのはおかしいんだよ。刺すのはかまわん。じつに正しい。犯してるみたいで楽しくなる。否定はするなよ。本当のことだから。経験者に、したこともないやつが文句を垂れるな。だがね、あれはよくないよ。
常識的に考えてみろ。わざわざ首まで落とすなんて、疲れるじゃないか。それでも、やったんだ。多くの労力をついやすためには、理由があるはずだろ?
それが何だったのかを考えてみてくれ。
……どうして、わざわざ、聖女の首を、落としたのか。
わかるか?
わからない?
……ワシにはわかる。
よくわかるんだ。「生き返ってきそうだったから」。
恐怖と神秘は、こうしてワシのなかに五十年経っても息づいている。聖女が殺されてから、すでに三十年も経っているのに。まだ、儀式の悪夢を見てしまう。恐怖と神秘は、どちらも不死身なんだよ。
もちろん。あの聖女が口走った呪文も、まだ忘れられない。あんな短い言葉がね。半世紀も脳みそのなかにこびりついていやがる。しつこい寄生虫みたいにな。「へる、へる、へぶん」。あのとき、つぶやくんじゃなかった。憑りつかれちまったままだぜ。
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