序章    その6/星の下で双子と


 そうだ、これは『神秘的』というものか。


 ……学びの多い瞬間だったのは確かでね。


 燃える獣の疾走は、おどろくほどうつくしいと知る。そして、百人の狂気は怒れる巨大熊さえもひるませるのだと。くそったれのショッカーどもは、勝利しちまいやがった。


 だが。


 ガゴンという大きな音が夜の闇を揺さぶる。炎の獣は山に逃げ帰れなかった。ヤツの脚には何十メートルもの長さがある『鎖』が巻きつけられていたからだ。逃げるという権利は最初から奪われちまっていたらしい。ヤツは止まる。『鎖』は引きちぎれそうにない。ワシは考えた。「逃げられないけど、その逆は?」。


 あの鎖、ワシらがいる方向には余裕があるはずだ。鎖の『根元』は檻のあったところだったからな。太い杭が地面に突き刺さり、そこから張り詰めた鎖が闇に伸びていやがる。つまり。逃がしはしないが、ワシらの安全に対しては、まったくの役立たずだということだ。ヤツには復讐の権利だけが残されている。


 鎖ってものを獣に使うとすれば、ふつう人を襲わせないように使うはずなのに。

あらためてこのショッカーどもが異常な連中だと思い知ったとき、聖女がワシの視界に入ってきた。


 やはり、彼女は誰よりも間違っている。


 巨大熊に近づいていくんだ。その手には、いつのまにか弓をたずさえて。「おいで」と呼ばれたとき、炎の獣は聖女をどうとらえたのか。次の瞬間、明確な答えをワシはもらう。ヤツはこっちを見たんだ。聖女かもしれないし、百人の犠牲者どもかもしれない。だが、ワシはこう感じたんだよ。


「こいつは全人類に復讐したがってる!」


 にらまれた。全員だ。さっきの予想は正しかったんだ。聖なる炎の獣、怒れる森の神。こいつは復讐のために、ワシら全員を食い殺す!


 逃げようとした。だが、母親に腕をつかまれたんだ。「聖女さまが、お救いくださるわ」。異常なまでに引きつって歪んだ笑顔。ワシは、自分の母親が、もうとっくの昔に、自分の知っている生き物じゃなくなっていたことを悟った。この瞬間から、この女のことが大嫌いになった。別人だ。「こいつはお母さんじゃない」。だが、逃がしてくれないんだ!


 熊の雄叫びに鼓膜をぶん殴られる。


 逃げられないあわれな子供は、ガタガタ震えながら炎の獣を見つめた。したくはねえが、そうするしかない。蛇ににらまれたカエルは、わざわざ死の虜になるように身をこわばらせながら、自分を殺す牙だけを考えるもんだ。


 おかしくなるんだよ、死の化身と出会ったら! 逃げることもできなくなって、殺されるまで、ただただ観察をするしかないんだ!


 ああ。近づいてくる。すくんだ脚は、一歩も動かん。自然と狂気の怒れる化身は、きらめく火の粉を闇に散らしながら疾走する。めちゃくちゃ速い。全員を食い殺す気まんまんだ! ショッカーどもも奇声をあげたよ。さっきとはちがう。威嚇の声じゃない。悲鳴だ。百人全員が、殺されると信じさせられたんだ。


 だが。生きている。ワシは、今も。そうだ。あのときも聖女だけは冷静だった。


 彼女は弓に矢をつがえると……ワシは気づいたよ……あれは洋弓だ。ミュンヘン五輪で見たものよりいかつい。つまり、狩猟用に使える、コンパウンド・ボウだと。


 鈴の音が闇におどった。


 聖女の弓には、鈴がぶら下げられていたからだ。音といっしょに矢が放たれている。燃える獣にそれは当たった。アタマにだよ。そして、ヤツは崩れるように倒れちまった。即死とはいかない。生命はしぶといんだ。燃える体をじたばたさせるが、二の矢、三の矢が放たれる。背中と、首にも矢が当たった。


 コンパウンド・ボウから放たれた矢ってのは、ときとして岩にさえ突き刺さる。巨大熊のたくましい体でさえも、問題はない。


 深々と巨体に突き刺さったそれらは、ヤツの筋肉と骨格を貫通して縫い付ける。動けなくするのさ。動こうとするほどに、金属の矢はヤツを内側から切り裂いて壊すことにもなった。さすがの巨獣も、焼かれたあげくにこれほど痛めつけられたら、ようやくあきらめる。全身やけどと、体内の破滅的な損傷。内外問わず、聖女に破壊され尽くしたんだ。


「おやすみなさい」


 四本目の矢が、至近距離からヤツの頭部を射抜いちまった。とどめだ。いっしゅんの静寂。そして、信者どもが歓声をあげる。「勝利だ!」、「悪から人類を解放したぞ!」、「これで新たな夜明けに近づけた!」。「命が生まれ変わり、転生が果たされる!」。理解できないことばかりだ。


 だが。


 おそろしいことに。「たすけてもらえた」。そんな気がしちまう。事実の誤認だ。すべてはこいつらが始めたことなのに。だが、そのときは聖女がまさにヒーローだった。「言った通りになったでしょ。聖女さまは私たちをお救いくださるの!」。


 母親に連れていかれる。


 焦げた毛皮と、焦げた血のにおい。闇よりもはるかに、まっくろだ。巨大熊はワシらのすぐ目の前で、大勢の男たちの腕により仰向けにされちまう。


 聖女も近くにいた。彼女のとなりには、いつのまにかワシと同じぐらいガキな少女がふたりもいる。そのひとりに聖女は弓をわたす。もうひとりの女の子……こいつらはどうやら双子らしい。白装束だから召使いどもだ……から、大きな登山用ナイフを受け取った。「聖女さま、儀式をお続けください」。


 まだ終わりじゃなかったんだよ。


 聖女は、ナイフで熊の解体にとりかかった。ワシのすぐそばで、毛皮と肉を切り裂いていく。なれた手つきでね。すぐに、傷口からはらわたが飛び出てくる。鼻の奥にこびりついて、歯ブラシでこすりたくなるほどの悪臭といっしょにね。聖女はひるまない。


 カエルの解剖でもするように……いや、もっと、おかしな何かだな。何かの、邪悪な儀式だ。


 こいつは、聖女というよりも魔女にちかい。だってね、口ずさんでいたから。ほとんど聞き取れないささやき声。おそらく、大半は未知の言語によるまじないだ。この女の心の闇からあふれでる狂気の言語だよ。わずかばかり耳が捕まえてくれたのは、「へる、へる、へぶん」。これだけ。


 呪文だ。呪わしい魔法の言葉。ワシはあやつられたかのように真似してつぶやいちまった。「へる、へる、へぶん」。地獄、地獄、天国。物騒なのが二対一で勝ってやがるのが肝心だ。こいつは聖女なんかじゃなくて、やっぱり、魔女―――。


「―――生まれる」


 聖女が腕を伸ばす。自ら切り裂いた巨獣の腹の奥の奥まで、ぐいぐいと両手を突っ込むんだよ。えぐるように。ああ、おぞましい光景。それに、何とも不穏な言葉だ。生まれる。死んだ熊から何が……そいつが、「へる、へる、へぶん」なのか?


「生まれ変わった。新しい双子が、生まれる!」


 答えがヤツの腹からあらわれる。聖女の腕に引きずり出されて、夜空の星のしたに。


 左右の手に、それぞれ。ちいさなふたつ。


 赤子だ。


 つまり双子の胎児……。


 勘違いしないでくれよ。それは仔熊という意味じゃない。ワシは自分がとんでもない地獄の儀式に参加させられていたことに気づいた。あの女の子たちの片割れが、たいまつの明かりで照らしたそれ。熊の血でぬらぬらとかがやくそれは、どちらも人の胎児だった。


 そうだ。


 熊の腹から、人間の赤ちゃんたちが出てきたんだよ。


 もちろん、あの熊が母親ってわけじゃない。ここは恐怖と神秘の現場だが、ちゃんと現実なんだから。この邪教どもが、のちのち引き起こした事件を考えると、どんな手法を取っていたのかは想像がつくはずだぜ。


 連中はどこかで死んだ胎児たちを手に入れた。あるいは、生きていたかも。



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