序章    洗礼その5/炎の蝶が羽ばたいた


 さて。


 閉じ込められた熊に対して、『聖なる祈り』がこめられたガソリンのシャワーを浴びせただけで終わってくれたなら、ワシだってこんなショッカーじみた集会のことを五十年以上も記憶に残しちゃいなかっただろう。


 もちろん、これからが本番だ。


 聖なる油を注がれた巨大熊は、怒りに満ちて固定されているはずの檻さえ揺さぶる力を発揮した。ガンガン、ガシガシ、鋼が軋む。そいつは、まさに恐怖の象徴ではあるが……神秘性は足りていない。


 言ったはずだぞ。ワシは双子と出会ったと。


 儀式が始まる。


 うつくしい女がやってきたよ。ワシらとは異なり、白一色じゃなく赤色も入った装束だ。すらりとした細身で、長い黒髪。彼女は炭水化物を憎悪する最近のアイドルよりもやせていたから、年齢は実際よりも若く見えたはずだ。最初は十代だと感じたが、たぶん二十代だろう。


 信者どもが全員、頭を下げてひざまずく。「聖女さま」。なるほど。ワシも母親の手に頭を押さえつけられていたが、こっそりと盗み見してやった。


 凛とした顔立ち。くらやみにも負けずに浮かびあがる、あの雪のように白い肌。目つきにはするどさがあったが、口もとはやわらかく微笑んでいた。こんな異常な状況でなければ、ワシも惚れたかもしれない。


 こいつこそが、この邪悪な集団の『聖女』だ。儀式をみちびく巫女的な役割を持たされているのか、あるいはもっと大物なのか。すくなくとも、この闇に集まった連中は、彼女に対して異常なまでの敬意を払っている。完璧な土下座をしているんだよ。情けねえ。


 獣以外が完璧な沈黙となったとき。


 聖女はただひとりで檻のそばに立つ。獣の殺意を一身にぶつけられながらも、彼女は冷静にして沈着だ。うつくしい声で告げる。「はじめましょう」。さほど大きくもない声だったはずなのに、全員の耳にそれは届く。聖女は白い両手をこすり合わせるように動かした。


 魔法を見る。


 彼女の手のなかから、炎が生まれた。手品のようにあざやかだ。うつくしい。ただよくないことがある。こんなにガソリン臭いその場所で、火なんて使うべきじゃない。


 全身に悪寒が走った。やばい。彼女の手から、炎がゆっくりと落ちていく。彼女は紙片でも燃やしていたのかも……と、魔法の正体を見抜けた。だが、そんなことよりも……。


 熊に炎がかかった。


 もちろん毛皮にしみ込んだガソリンに引火して、即座に大炎上だ。


 アホみたいにデカい炎が飛び跳ねたよ!


 爆炎というものは、こういうものかと思い知らされる。夜空を赤いかがやきで埋め尽くしながら、見ているこっちの顔面さえも熱が噛みついてきやがった。痛いほどに熱いんだよ。「全身が焼かれるかもしれない」。しょんべん漏らしそうなほど、あわれな9才はおびえていたのに。聖女ときたら。炎の前で優雅におどる影がいた。


 まるで、炎をあやつっているかのようでね。


 あの瞬間ばかりは、目玉が焼かれそうなほど熱いのに、聖女の指先のうごきまで注視しちまう。だがね、すぐに正気にもどれたよ。ワシはショッカーじゃないから。


 思い出せたんだ。


 もっと大事なことがある。熊だ!


 ……当然なことがおきていたよ。轟々と暴れる火柱が、檻のなかで獣を丸焼きにしていた。ヤツの毛皮を焦がすにおいは、とても臭くてね。ケラチンだ。髪をライターであぶってみろよ。サイアクのにおいがする。あのときは、それの1000倍ってところだ。


 焼かれる獣は檻のなかで転がり回っていた。痛みのあまりに雄叫びをはなつ。「焼かれたぐらいじゃなかなか死ねない」。近所であった焼身自殺について語り合う大人たちの会話は、たしかに真実だった。


 闇のなかに吼える炎が、閉じ込められた檻を揺さぶりながら右に左に……。


「さあ、解き放ってやろう」


 思い知らされる。ショッカーどもの幹部と同じく、この闇の聖女はもちろん誰よりも正気じゃなかった。彼女が檻の一部に触れた瞬間、檻が四方に崩れるように開いちまう。カギを開けちまったらしい。ああ、殺されると思った。開けちゃいけない箱を開いてしまうなんて。炎の獣は、きっとワシらを憎み、怒っている。


 だがね。


 聖女は指を振った。オーケストラの支配者がそれをするように。優雅なもんさ。

カチカチカチ。音が響いた。狂信者どもが……こともあろうにワシの母親もふくめて。いっせいに歯を鳴らす。開いた口を勢いよく閉じることで、上下の前歯をぶつけてやがるんだ。


 カチカチ、カチカチ。


 田舎者だから、理解できちまったよ。こいつは野豚……イノシシの威嚇を真似ていると。夜の林のなかで、イノシシも歯を鳴らす。あいつら同士のケンカ腰のあいさつだ。どんぐりの所有権をめぐって、この音を浴びせる。ワシの母親や、周りのバカどもと同じように。


 熊が叫んだよ。腹が立っているのさ。ワシらに激怒し、殺意を向けている!


 逃げなくちゃ。


 大人になれなくなる!


 ヤツに殺されると信じ込んでいた。たかが野良の豚を真似たところで、炎と怒りに燃える巨大熊がどうなるというのか。炎のかたちをした熊、あるいは熊のかたちをした炎。あんなものは、神がかった存在。神そのもの。聖なる獣が、檻から出ちまったんだぞ!


「ぜったいに殺されちまう!」


 ……ワシの予想は、間違っていたから、五十年経ってもこうして生きているわけだがね。


 炎の獣が、逃げ出していた。


 あれほどの怒りがあって、復讐すべき聖女がすぐ目と鼻の先にいたのに。聖なる獣は、屈したんだよ。ワシらに背を向けて走る走る……安堵すると同時に、おそろしくなる。あいつでさえも逃げ出しちまう場所に、ワシはどうして立ち尽くしているのか……。


 闇のなかを、照らすようにヤツは走っていた。炎が闇を切り裂いちまう。ああ、うつくしいと思っちまったよ。


 とてつもない躍動感だ。それは生命の原始的な魅力にあふれていた。そして、炎の生み出す闇を追い払っちまう光ってものは、いやでもおうでも人の本能を興奮させやがる。自然を征服する、人の叡智。火ってものは、ワシら人間の心に何より問いかけるものだ。


 ヤツから燃える毛がちぎれるように飛んで、それは蝶の群れのように羽ばたいた。まるで炎の蝶の軍隊を引き連れた、山の神さまだ。まっくらやみのなかだからこそ、あそこまでかがやく。ありえない。ありえないほどうつくしい。現実と何か別のもののあいだにいる気持ちになれたよ。



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