序章 洗礼その3/聖母みたいに微笑んで
開けるべきでない箱は、数多い。
変わってしまった。
その女は、闇に染まる。やさしく理想的な警官だったのに。善意を信じていたのに。自分が正しい行いをしていけば、それだけ世の中を幸せにできると。彼女は永遠に変わってしまった。彼女はこの出逢いに、運命を感じてしまっている。すべてを捧げて、添い遂げるべき存在を見つけてしまったのだ。
その青年は、疑心に囚われる。すぐそばで狂気的な笑顔を見せる彼女は、尊敬できる先輩のはずで、ひそかに恋をしている相手なのに。彼女と家庭を築けたら、どれほど幸せだろうか。ありふれた夢を見る、ごくあたりまえの男だったのに。彼もまた変わってしまった。あこがれていたはずの未来を、疑ってしまったから。
中年男は心を病む。数か月後には、赤い天使の幻覚のせいで自殺する運命だ。日本では珍しい、クリスチャン。教会に行きたくなっていた。聖書のなかには、おそらくこの状況を説明してくれる一説があるはずだ。神父さまの知恵を頼りたい。だって、これは『天使』だ。聖なるもの。そして、なぜか邪悪でもあるものだ。神さまの領分に違いない。
何かが、それぞれのなかで。
孵化した。
内側からふくらんだのは、恋慕や恐怖や失望や畏怖。それらが、これまで彼らだったものを歪めていく。さなぎを作った虫は、さなぎのなかで細胞をドロドロに融かして、新しいかたちに自分を変えて、外へと飛び出すものだ。かつての姿かたちを、大きく変えて。
そういったものの一種だ。
……とある悪人の言葉を引用していいのならば、彼らの心に生じた力を説明するのに適したものがある。「こいつらのアタマのなかから、『蝶』が目覚めちまったんだよ!」。
「と、とにかく! 彼女を、お、降ろさないと!」
「生きているから?」
「ち、違いますよ。犯罪の被害者だから……死んでいる。死体ですよ」
「違うわ」
「違いません!」
男の警官が、腕を伸ばした。宙につられた天使に対して。女の警官は、怒りを覚える。
「やめてよ。天使さまに、男が触らないで」
「そ、そんな言い方をしないでください。天使じゃない。だ、誰か、凶悪な人物に殺された、か、かわいそうな被害者で―――」
推理が始まる。
呼び出した女だろうか。これを見つけせるために。これは、触れずに保管していた方がいいんじゃないか。『犯人』の証拠が、この冷たい箱のなかにはつまっているかも。
どうしよう。
葛藤が生まれた。
でも、手遅れだった。腕は伸びてしまっている。そのせいで、『罠』に引っかかった。天使を吊るすために使われていたのは、鎖とワイヤー……それらは目視できたが、『罠』は趣が異なる。それは目視しがたい細さであり、アクリル製。透明な糸だ。
それに男の指が触れる。
「天使さまに触るな!」
女の警官が怒鳴った瞬間、『罠』は動く。死体のはずの天使が動いた。右腕だけ、振り下ろされたのだ。それと連動し、天井から床に向けて垂れていた鋼線のひとつが解放される。
男の伸ばした右腕を罰するように、爆発的に加速した鋼線が床から跳ねあがり襲いかかったのだ。前腕の皮膚が、ざっくりと切断されるのを中年男は見ていた。そこから血が噴きあがる瞬間も。耳をつんざく叫び声も聞いた。
「て、天使に……こ、殺されるっ」
「う、うう。痛い、違う。わ、罠です……に、逃げないと。ま、まだ他にも、罠が……」
「……天使さまは、生きているんだわ」
恋する彼女が、愛しい天使に腕を伸ばそうとしたとき。男の警官は彼女に抱きついて、霜の這う床へと押し倒していた。切られた右腕が痛むし、血があふれる。でも、止めないと。
「わ、罠があるかも。近づけば、き、切られる……」
「生きているのね。意志があるの。だから、あなたは、罰せられた!」
「い、生きてなんていませんっ。死んでる。死体だ、こいつは!」
「じゃあ。死んでいても、殺せるのね。やっぱり、すごい!」
「はあ、はあ……ひ、ひい。ひ、ひいいい!」
業者の男は気づいた。この異常な『天使』。死んでいるくせに、人を殺そうとした天使。それがつるされたこの場所の『壁』を見た。そこには、赤い模様が描かれていた。呪わしい文字のように、鋭角的で、幾何学的な、線の群れ……それは、おぞましい形をかたどりながら壁にも天井にも、警官の血が広がっていく床にも、自由自在に這い回っている。
「ば、『ばけもの』が、あ、あちこちに、か、描かれている……っ」
そうだ。
天使がいるこの場所には、『悪魔』と『竜』も描かれていた。凶悪で、今にも噛みついてきそうな怪物どもの群れが。
「な、何だよ、これ……ここ、何だよおおおおお!」
絶叫する中年男の視界のなかで、天使は怪物どもに命令を出していた。踊る。動く。幾何学模様の怪物どもが、天使を取り囲むように動いていたのだ。
「ああ。きっと、天国だわ」
「そ、そんなわけ、ありませんから! うう、痛い。痛い……きゅ、救急車を……」
秘密はある。
仕掛けはあった。
応援として駆けつけた警官たちが、罠の仕掛けを紐解いた。二時間もかけて注意すれば、見抜けなくはない工作だ。「軍隊が使う、罠みたいだ」。
だが、見抜けなかった作為もある。ワイヤー製の罠を解除していくあいだに、薄まってしまっていたが、それは空気中に漂っていたのだ。一種のカビである。既知のカビではない。人工的に生み出された遺伝子工学の産物。学会にも知られていない、とくべつな生き物だ。
そのカビが、空気中に魔法をかけていた。そいつの胞子を微量にでも吸引すれば、幻覚を見てしまう魔法を。かつては魔女やシャーマンたちが使っていた伝統をもった菌類、それをベースにして生み出されたカビ。このカビの胞子はLSDにも似た成分を持っている。
つまり、感情を興奮させ、記憶を混濁させ、感覚を鋭くし……幻覚を見せた。精神が不安定になった状況でこのカビの胞子を吸引すれば、数日から、ときには数年のあいだこのときの体験を忘れさせてくれない。天使に恋した彼女は、脳内に『呪い』を刻まれたのだ。
笑っている。
何とも幸せそうに。
だから、救急車で運ばれながら……自分のそばにいてくれる彼女を見ている男の警官は、不安で不安で仕方がなかった。何かが変わった。奪われたような気持ちになる。きっと、もう元通りにはなれない。
「ねえ、痛くない?」
やさしい声で自分をいたわってくれる彼女を見ても不安は消えない。「はい」と答えて、目を閉じた。天使なんかじゃない。天使なんかじゃない。何度も呪文のようにアタマのなかで繰り返すものの、痛みつづける傷に、得体のしれない不安を覚えた。
「うらやましい。その傷、似ているの。天使さまも、赤かったから。あなたの腕も。ああ、そうね。うん……それは聖痕だわ」
そんな言葉を聞きたくはなかった。神秘的な響きをもつそれを、この傷に対して使わないでほしい。わかってしまうから。自分の痛みよりも、彼女は……恋しい天使の刻んだ傷を選んでいる。とても、怖くて、耐えられそうにない。どうして、こんなことになったのか……。
お願いだから、聖母みたいにやさしく微笑まないでくでさい。そんな言葉を口にする勇気もないまま、目をずっと閉じていた。
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