序章    洗礼その2


「あの。あれは、ここにあるものなんですか、ね……?」


「い、いえ。防犯カメラに、あんなものは……映っていなかったはずです」


「誰に貸しているの?」


「コロナで、あちこちの飲食店がつぶれてましてね。あそこのいちばん奥は、しばらく誰にも……」


 嫌な予感がする。だから、業者は勇気を出せない。警官に目で催促した。「あなたたちが開けてください」。かわいそうに。いつでも警官は勇気を試されて、出会うべきじゃないこの世の悪と遭遇してしまうものだ。


 さあ、また箱を開こう。


 シュレディンガーの猫ならいい。箱のなかの猫は、箱を開くまで生きているのか、死んでいるのかわからない。否定できない相反する可能性が共存している。悩ましい思考実験であっても、しょせんは猫だから。どうでもいい。生きていても、いなくても。


 だが。


 男女の警官の開いたカーテンの先には、『天使』がいた。


 人間と神さまのあいだ。


 聖なる存在。


 でも、邪悪さもあった。


 広げられた赤い翼と、痛々しい赤い胴体。白くてうつくしい顔をしていたが、それが救いをもたらすことはない。


 残酷だった。天使に見立てるように死体を『改造』して宙づりにするなんて。


 背中の肉を裂いて引っぱり、翼を模した。皮をはがされた体のあちこちで、血の色をした肉がむき出しだ。顔だけはうつくしいまま。ああ、なんてひどい行いだろう。


 警官たちと業者は悲鳴をあげた。みんなで、同じように叫ぶ。彼らは、「あたり」を引いてしまったのだ。


 ゴールデンウィークも労働するはたらき者の三人は、すぐさま心をむしばまれていく。猟奇殺人の遺体は、すこしばかり特殊な感情を心に呼び起こしてしまうものだから。


 よくデザインされた『死』は、心のなかに土足で踏みこんでくる。死は神聖なものであり、絶対的な力だ。


 だって。


 死からは誰も逃れられないから。


 目の前にある死を心のなかに侵入させない方法はなかった。道路に転がる動物の死体さえも、無視できない力がある。あんなどうでもいい動物でさえ、そうなのだ。ならば、人間だったら? しかも、ありえない殺され方をしたこれは?


 彼らは混乱した。


 心の奥から彼ら自身も知らなかった感情が湧いてくる。困惑や恐怖、不安、本能的な衝動たちの混ざったものだ。それらは理性をいともたやすく壊してしまう。男たちは思った。気持ち悪い。大人になってから、こんな感情を抱えたことはないのに。吐きそうだ。いやだ。くるしい……。


 でも。


 何事にも例外がある。


 女の方の警官が、ふるえる言葉を口にした。危険なまで死に魅入られながら。「すごい」。猟奇殺人を称賛するような言葉であり、とても不謹慎だった。


 彼女自身も理解はしている。それでも。否定はできない。警官になってから、いくつも死体を見てきたが、それらはどれもおぞましくて、醜かった。みじめに力なく、地面に横たわっていたのに。


 腐敗に、うじの群れ、嫌悪すべき悪臭に、弱々しさと、はかなさ。永遠の沈黙と、無限の停止。死のもたらすあらゆる醜さに辱められていて、きたならしかったのに。これはあまりにも違う。生き生きしているように見えた。矛盾が生きている。死体のくせに、うつくしくて、躍動的。そうだ、命があるようだった。


 おぞましい考えが浮かぶ。もちろん、彼女自身だけはそうは思っていなかったけれど。「みんな、これにしてあげるべきだ。これこそが、ただしい」。自分が死んだときは、こうして欲しい。自分以外もだ。だって、だって。


「きれい。生きてるみたい。それに、浮いてるわ。飛んでるの。天使さまだわ!」


 運命の出会いだと信じていた。


 人生はある日、劇的に変わる。


 恋愛小説やドラマと同じ。運命の相手と出会えたときから、何もかもが変わる。幸福感に心はいっぱいにされて、いつでも楽しい。息するだけでも笑みがこぼれる。恐怖が消えて、恋慕と尊敬の目が、吊るされた死体に集中していた。つまりは、一目惚れだ。


「すばらしいわ!」


 もうひとりの警官は同僚の発言および目の前の現実に、逆らうべきだと思った。普段は尊敬している彼女のことが、今はとてつもなく気持ち悪い。


「なんてことを……し、死体が、鎖でつるされているだけですよっ!」


 中年男は、吐き気の奥でふくらんでいた感情を放つように、二度目の絶叫をする。しょうがない。三十七才の立派な男でも怖いものは怖いのだ。だって、天使と目が合ってしまったのだから。この天使は赤い瞳をしていた。「赤い、赤い目をしているっ。こ、これは人間の死体じゃないんだ」。逃げたくなる。見ていたくない。


「た、たすけて、神さま!」


 助けはあらわれない。中年男はその場に腰が抜けてしまう。この倉庫の床が、これほど冷えていることを初めて知った。従業員なのに。ああ、逃げたいのに足がもつれる。合ってしまった目が動かせない。床の霜に囚われて、身も心も凍りついてしまうかもと心配した。ここは氷の地獄だったのか。


 反応は……。


 三者三様、それぞれあった。


 抑制が効いたのは男の警官だけ。だが、彼も精神的に追い詰められている。同僚は様子がおかしいし、この死体はあまりにも異常だったから。尻もちをついた中年男のように、感情を吐き出すべきだ。そうでなければ、体内でふくらんでしまった嫌悪感に、自分が内側から引き裂かれてしまう。


 見るべきではない。出遭うべきでもない。体の半分の皮膚をはがされ、はがされた皮膚と肉で翼を作られ、鎖とワイヤーで宙づりにされた乙女の死体になど。


 おぞましい。


 だが、最悪なことに、たしかにうつくしくもあったのだ。炎のように赤い翼は、死を超越するような力強さがあった。しかも、宙に浮いている。神秘的なことだ。反り返った裸身はセクシーで、とても女らしい。若さも感じられた。


 その顔は、愛せる程度に蒼褪めていて、まるで彫刻のように綺麗な肌をしている。何才かはわからないが、すらりと伸びた長い手足の持ち主にしては、童顔に見えた。だから、人形みたいだ。


 もしも、この天使が生きていて、今みたいに一糸まとわぬ姿であれば、きっと彼は欲情する。でも、死がもたらした停止は、性欲をかき消した。だいたい、体の大部分の皮膚をはがれているのだ……。


 彼にとっては、人形じみた『物体』だ。


 そこから命を感じることはない。だが、たしかに芸術的ではあった。


 はかなげな表情は、謎めいた名画のようについつい視線を誘う。赤い瞳が映すものが何なのか、考えさせてしまうのだ。誰かを探し求めているように見える。その誰かが女の警官ではないことを、彼は祈った。


 伸ばした指先の形は、見る者の魂をつまんで引きずり出そうとするかのようで、いたずらっぽくて挑発的だった。


 もしも、この天使の恋人だったら、あの指を舐めたくなるかも。おそらく飴みたいに硬くて冷たいはず。


 恐怖と神秘を、やわらかくてうつろいやすい心に刻みつけられながら、この最初の目撃者たちは汚染された。「はやく、署に報せなくちゃ!」、「きれい、まだ、生きているのかな?」、「たすけて、もう、ここにはいられないよ!」。



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