第5話
メドハギは窓の外を眺めながら、
「無理だろ、俺を雇うわけがない。業界での俺の評判は最悪だぜ? 裏方として雇っただけでも周りからなんて言われるか……。それに俺が親なら俺みたいなトレーナーに我が子を預けるような真似は絶対にしないね」
自分で言っておきながら悲しくなってきた。
再び訪れた沈黙。
トイレから戻ってきた青い目の酔っ払いは相変わらず、老人に悪態をついている。
溶けた氷がグラスの中で動き、カラン、と鳴った。
それが合図だった。
「……も、問題ない。既に話は通してある!」
額にうっすらと汗を浮かべたクリスが言い切った。
「……」
「ハギの力が必要だ! レース界は変革の時代を迎えている。お前を追いやった暗黒の世界は変わろうとしているのだ!」
「声でけぇよ」
「いつまでフラフラしているつもりだ。無頼の根無し草を気取るのはもうよせ……! お前が根を張るべきはこの世界だ。ここでしか咲けないことは貴様自身よく分かっているだろ!」
「いきなり何なんだよ。ちょっと落ち着けや」
「昔の借金が今も残っているのだろう⁉ どうやって返すつもりだ! 世界中で出稼ぎの旅か、怪しい連中とつるんで野良レースで小銭稼ぎか⁉ そんなつまらないことはもうやめろ! お前は『神に愛されし悪童』、メドハギ・ブラックだろう……っ」
「……人間は花じゃねぇよ。輝けなくても、咲けなくても生きていける。風任せに飛んで行って適当なところで休む……俺は今までそうしてきた。それを否定するなんて人権意識が低いんじゃねぇの? 職業選択の自由ってやつがあんだろ」
「真にそれを望んでいるのならば、俺は何も言うまい。失言を認めて謝罪もしよう。だが、今の貴様はひどくつまらなそうにしている。俺にはプロになる前と同じ顔に見えるぞ……」
クリスのテーブルの上の拳が微かに震えている。
「復讐するのは諦めたのか? イタズラ小僧のような表情で夢を語る時の貴様は、本当に嬉しそうにしていたではないか」
「……」
「……すまない、こんな言い方。卑怯だったな……」
店内はテレビの大音量が流れているため、客がこちらを見ることはない。騒がしく酒の入った陽気な空間の中、2人の座るボックス席だけが隔離されたようだった。
「だが頼む、ハギ……! 俺はもう一度、お前の言う復讐という名の夢を見てみたいんだ……」
メドハギは息をのんだ。
クリスの目じりに透明な液体が溜まっていた。大の男が涙ぐんでいたのだ。
メドハギは体重を背もたれに預け、天井を見上げると、それっきり押し黙った。
このバーでは言い争うよりも静かな方が目につきやすいらしく、隣のボックス席の客が視線を寄越した。
長い、長い沈黙だ。
やがて、汗をかいたグラスによって、コースターが水浸しになった頃。
間を埋めるというにはいささか物騒過ぎる怒号が静寂を破る。
「おい黒目! そこの席どけ、なんでテメェがテレビの最前列なんだよ! 見えにくいだろうが! 黒目は隅の方で見てろ、クソが!」
また酔っ払いが騒ぎ始めた。
飛び火を避けるように、カウンター近くの客達は努めてその方向を見ない様にする。
「こ、ここはワシがずっと座っている席で……」
「お、お客さん、この方は30年来の常連でして」
「あぁん⁉ どうせ安酒1杯で何時間も粘るような貧乏くせぇ常連だろ! それとも何だ、この店は客を差別する店なのか⁉」
メドハギはスッと立ち上がり、青い目の酔っ払いの方へ歩き出した。
真っすぐ、迷いのない歩みで男の背後に立つ。
「お、おいハギ……」
引き留める声を無視して、ゆったりとした動作で酔っ払いの肩に腕を回し、
「まぁまぁ兄さん! 今日は祭りだ。イライラしてねぇで飲もうや! マスター、この兄貴にビール追加してくれや」
ニッコリ笑った。
「あ、あんた……そのサングラスと黒髪⁉ まさかメドハギ・ブラックか⁉」
酔っ払いは口をあんぐりさせた。
奥に見える黒い目の老人が目線だけで感謝の意を示してくる。
続けてメドハギは両者の間に身体を滑り込ませる。
「おうとも! 久しぶりにこの街に帰って来たのよ! あ、今の注文はあそこのノッポにつけておいてねー」
「お、おおお! 俺あんたの大ファンだったんだよ! このシャツにサインしてくれよ!」
「もちろん!」
マスターからペンを受け取り、慣れた手つきで男のシャツに書き込んでいく。
「い、今は何をしてんだ? 引退してから何の情報もなくてよ! ガッカリしてたんだぜ⁉」
一度大きく息を吸い込んでから、メドハギは言った。
ゆっくりと、丁寧に、そして言葉の意味を自身に刻み込むように。
「今は、子供たちに
それからメドハギは男と1杯飲んだ後、ボックス席に帰った。
クリスは驚いた表情のまま固まっていた。顎がテーブルについてしまうのでは、というほどだ。
「本当に大人になったな……」
「こんなところで殴り合いになるとでも思ったか? もうそんな歳じゃねぇよ」
「それだけじゃないさ……」
「あん?」
クリスは目元を擦って言う。
「本当に良かった……」
「だれも断るとは言ってねぇ……勝手に熱くなって暴走してんじゃねぇよ。まぁ正直金には困ってるからな、給料が良いならガキのお守でもなんでもしてやるさ。……俺は職務経験の豊富さなら自信がある!」
きまり悪そうに言う姿を見てクリスが笑う。
「善は急げだ、明日の朝8時に中央駅の噴水前に来てくれ。職場まで案内する」
「あぁ分かったよ、先輩」
「……あ」
立ち上がろうとしたクリスが不自然な中腰の姿勢で停止した。
「あと、入会希望の若い選手を連れてきてくれ」
「あん?」
「さっき言った
寝耳に水な新情報に一瞬頭がクラっと来た。
「何だよそれ………………ったく、しゃーねーな、一度やるって決めた以上、それ位の理不尽には耐えてやるさ。こう見えても訪問販売のバイトだって経験があるんだ。それ位どうとでも……ん、待てよ…………? それって……いつまでに」
「面接当日」
「つまり……」
「明日の朝」
「はぁっ⁉ 何でだ⁉ まだその
「今日の朝、約束してしまった……。必ず条件をクリアする元1級の選手を連れて来る、と…………、そして、できなきゃお前はクビだ、と言われた……だから俺は是が非でもお前を就職させなきゃならんのだ」
「それを早く言えっ! ほんっとに、そういうところ昔からだよなお前はぁっ!」
メドハギは店を飛び出た。
まさか今見せた涙は自分がクビになることを恐れたからではあるまいな。
旧友の会話下手なところは当時からちっとも変わっていなかった。
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