第2話
「はいよ、確かに3000ライカな」
古びた雑居ビルの2階。一見しただけでは何の事務所か分からない程簡素な一室。
ヤンと名乗る長髪を一つに束ねた東方風の男がローテーブルに置かれた灰皿に灰を落とした。
ヤンの赤い瞳が細くなり、向かいのソファに座るメドハギは前髪をかき上げた。
顔の形に密着するサイドカバー付きの特殊なサングラスを着けたメドハギを不思議そうに眺める。
バイクゴーグルのように目を完全に覆うサングラスを常用する者は珍しい。彼の反応は当然だった。
「しっかしあんた、一体何者だ? メドハギって変わった名前だよな、東方か? 金にがめついボスが利息無しで百万も貸すなんざ尋常じゃねぇよ」
「若い頃に縁がありましてね。温情で貸してくれたって感じで……。それより前任の……ほらハゲの……あの人は?」
「あぁー、ハンセン? 聞かない方が良いぞ」
ヤンはそう言うと親指で首を切るジェスチャーをした。
ただの「解雇」という意味ならば良いのだが、詳しく聞くと最悪、飯が喉を通らなくなる可能性もある。彼の言う通りこれ以上聞かない方が良さそうだ。
掌に汗が滲む。
平静を装ったつもりだったが、相手は本職。サングラスの奥の瞳の動揺を看破したらしい。
「安心しろ。ボスから無茶な取り立てはするなって命令されてるからよ。返済が滞らない限り今まで通り良好な債権者と債務者関係だ」
メドハギには100万ライカの借金がある。しかもロクデナシが最後に頼るような金融会社からだ。
エリート街道が約束された大卒労働者の平均初任給が3000ライカであることを考えると、その金額の膨大さが分かる。
若い頃の貯金とアルバイトで半分程返済が終わっているが、それでもあと50万ライカも残っているのだ。
「俺が言うのも何だけどよ。あんた本当に返せんの? 期限まであと1年だぜ? 1年で50万。今のまま月に一度チビチビ返済していたんじゃ間に合わねぇだろ。その3000ライカですら苦労しているみたいだいしよ……なぁ仕事受けてみる気はねぇか?」
「ありがたいっすけど……やめときますわ。一度受けたら、そのままズルズル続きそうだし」
「ははっ、まぁ賢明だわな。でもお前、ボスの直接命令は受けてるみたいじゃねぇか。それってもう立派な俺たちの仲間ってことだろ? 今更じゃねぇか」
「怖いこと言わんでくださいよ。俺はただ世話になった人に頼まれたから野良レースに出たことが数回あるだけっすよ」
「数回?」
「……まぁ、数十回だったかも」
「しかもギャングが集う違法賭博レース、だろ? くははは! 前にボスが言ってたぜ、アンタが期日までに返済できなかったら『俺専用の代打ちにするか!』ってな」
「はは……冗談に聞こえね~……」
そうなったら人生終了だ。
彼の下で50万ライカ分の働きをしたって、色んな理由をつけて脚抜けを許さないだろう。そのまま延々とこき使われて、飛べなくなったらそこで捨てられる。ただの解雇ならばマシだが、最悪消される可能性だってある。
加えて、長く関わればそれだけ摘発に遭うリスクだって高まるのだ。街の喧嘩で警察に捕まるのとはわけが違う。違法賭博で有罪判決を受ければ、もう二度とまともな職には就けなくなるだろう。
野垂れ死に。
絶望的な言葉が脳裏をかすめる。
そしてそれが妙に現実味がある気がして、メドハギの背筋が寒くなる。
「と、とにかく月々の支払はなんとかするさ……。ヤンさん、だっけか。あんたに迷惑はかけねぇよ」
「おう、そうしてくれると助かるぜ。困ったことがあったら連絡しな」
そう言うとヤンは懐から銀色のケースを取り出し、名刺を差し出した。
「同じ東方系のよしみだ。マシな仕事を紹介してやるよ」
名刺を受け取りつつメドハギは思う。
(こいつらの基準は狂ってるからなぁ……マシとか言って激ヤバな仕事なんだろうなぁ~)
どうやらヤンは
メドハギのことをマントの扱いが上手い東方系の債務者としか認識していない。
一時業界を騒がせた選手のメドハギはこの国では顔を指されることが多い。サングラスは昔から着用していたし、一種のアイコンとして機能してしまっていて、変装の役に立たないどころか逆に目立ってしまうのだ。
債権者と債務者以上でも以下でもないため、自分のことを知っていようがいまいが、関係無いと言えばその通りではあるのだが、余計な詮索をされるストレスがないのは少しだけ気楽だ。
ともかく、返済という月に一度の嫌なイベントを乗り越えた。
気が抜けたのか、メドハギの腹から切ない音がした。
「今日は祭りだからな。賞金、あいや商品券だったか。それ使って美味いもんでも食えよ」
「あぁ、そうさせてもらうよ」
メドハギはソファから腰を上げ、事務所を出た。
路地裏から広い通りに出ると、辺りは人で溢れかえっていた。
これでは店を物色するのも困難だ。そもそも空いている店などあるのか。
(この人だかりの昼飯時に空いている店があるとしたら、それは相当地雷な店だな)
レース後とあって身体はそこそこ疲れている。本来ならばゆっくり席について食事をしたいところだったが、それを諦め、露店で適当なものを買い食いすることにした。
チキンボール・サンドの列に並ぶ。
学生時代、練習終わりによく食べた思い出の一品だ。
当時と同じ店ではないがこの街ではメジャーな料理で、味に大差はない。
濃厚なトマトソースと刻み野菜、そこにゴロリとした鶏肉のミートボールが入っており、小麦の生地で巻かれたサンドである。
メドハギは懐かしい気持ちでかぶりついた。
「うまい……けど……」
あれだけ腹が空いていたのに3分の2ほど食べ進めたところでピタリと口に運ぶ手が止まってしまった。
味は変わっていない。当時のままだ。
「うぷ」
どうやら変わってしまったのは自分の方らしい。
10代の頃はこのボリューミーなサンドもおやつ程度にしかならなかったのに、今ではすっかり胃が衰えて完食するにも苦労する有様だ。
メドハギ、27歳。世間では若者に分類されるが、悲しいかな、相対的な衰えを否定できないアラサーである。
残りの3口分のサンドをいつまでも見つめていると、彼は不意に視線を上げた。
サングラスの奥の瞳が噴水広場の方へ向く。
直後、賑やかな通りを一陣の風が吹き抜けた。
「きゃあああああああ!」
絹を裂くような女の声が響いた。
「なんだなんだ……ひったくりかぁ?」
通行人の呑気な言葉とは反対にメドハギは口を開けて、持っていたサンドを落とした。
「大丈夫かネェちゃん‼」
メドハギの大声に通行人たちが目を丸くする。
上空には通りを挟んだビルの屋上間をつなぐ紐が架けられている。バルーンを飾る為の細い紐だ。
彼の真っ黒なサングラスにはその紐にぶら下がり、6階相当の高さから、今にも落ちそうな1人の女性の姿が映っていた。
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