第2話
「メニューはよろしいですね?」白猫の問いに、朱里は「はい」と答えた。
しかし、自分自身が何に「はい」と答えたのか、期待しているものが正しいことなのか分からない。怖くて、気を緩めると泣いてしまいそうだった。泣かないのは、あの大きな白猫がいるからかもしれない。
白いソファーに座って待っていると、「トンッ」と膝の上に衝撃が走った。猫だ。朱里はまじまじと猫を見た。きな粉色の茶トラ模様。丸いタレ目。鼻の小さなシミ。ビー玉のように輝く瞳で朱里を見つめている。
「きなこ。きなこなの……?」
猫は膝の上で立ち上がると、喉をゴロゴロと鳴らし、朱里の胸骨で前足をフミフミし始めた。つぶらな瞳は朱里から動かない。
「きなこぉ!」
朱里はきなこを抱きしめた。ぶわっと涙が溢れ出る。きなこも呼応するように、首元にグイグイ頭をこすりつけてきた。ぷんと懐かしい匂い。幸せで気が遠くなる。
「きなこ、会いたかった、……会いたかったよ。帰って来てくれたんだね」
頬にあたる毛の感触、体から伝わってくる温もり、聞こえてくる音。あの日に失われたはずのきなこが腕の中にいる。
「あの日、本当に驚いたんだよ。帰ってきたら、きなこが冷たくなってるんだもん。心臓が止まるかと思った」それから朱里は、きなこを失ってからの生活や、今までの思い出話を聞かせた。きなこはずっと喉を鳴らし続けた。永遠とも一瞬ともつかない、至極幸福な時間が過ぎ、再び大きな白猫がやってきた。
「お客さま。そろそろお時間です」
朱里は聞こえないフリをした。だが、きなこは敏感に反応した。まるで別れの挨拶をするように、朱里の手の甲をザラリと舐めて、もぞもぞと動き始めたのだ。朱里は思わず「ダメッ!」と叱り、柔らかな体をきつく抱きしめた。
「ダメよ、きなこ。また私を置いてどっか行っちゃう気? そんなのヤダ。……絶対イヤ! 離さない。一緒に帰る。ね、帰ったらちゅーるんあげる。10本でも100本でも、好きなだけ食べていいよ。一緒に帰ろう」
朱里はきなこを胸に、立ち上がった。出口はすぐそこだ。
「お客さま、おやめください。きなこさんを外に出せば、一瞬で灰になってしまいます。うむ。怪訝なお顔をされていますね。理解を拒むのも無理はありません。そんなことあるはずがない、とお思いでしょう。人間とはそういう生き物です。でも、お客さまは賢明ですよ。私の声に耳を傾けて、そこに留まっておいでなのですから。本当に理解しない方は、そのドアを開けて悲しい結末を迎えておられます」
白猫の話に耐えられず、朱里は下を向いた。
「うそ。そんなこと、あるはずない」
「そうですね。実は、真実を確かめるのは簡単なのです。私がお客さまを止めるのは1回だけ。その1回は、たった今使ってしまいました。私はもう、お客さまをお止めしません。きなこさんは覚悟してここにいるのです。どうぞ、真実を確かめてください」
「……きなこ」
きなこは「にゃぁ」と小さく鳴いた後、朱里の頬に頭をこすりつけた。
「…………ずるいよ、きなこ。私の味方になってよ。一緒に帰ろ? ……嫌だよ、寂しいよ」
白猫がため息をついた。
「お客さま……私はいつも思うのですが、寂しいはどこからくるのでしょう? 生者は、死者を別ものと考えます。果たしてそうでしょうか? きなこさんが亡くなったとしても、きなこさんは、きなこさんではありませんか? きなこさんを死者として分けるから、そこに寂しいという感情が生まれるのです。きなこさんは、ここにいます。きなこさんを、真にきなこさんとして受け入れてみてはいかがでしょう?」
「……わけ分かんない」
「ご理解いただけず、まことに残念です」
「なら、私がここに残る! ずっとここで、……っ、痛いっ! こら、きなこ! どこ行くの! きなこってば!」
鋭い痛み。手の甲に引っ掻き傷ができ、じわじわと血が滲み始めている。きなこは、大きな白猫の足元にいる。
「きなこさん、暴力はいけませんよ」
「どうして? 私はここにいちゃいけないの?」
「お客さま。あなたは生者。ここで暮らすことはできません。どうかきなこさんのお気持ちを汲んで、ご理解ください。ぐずぐずしているうちに、本当に時間がなくなってきました。きなこさん。望みは叶いましたね? お別れの挨拶をしましょう」
きなこは1回、2回、3回。と、ゆっくり大きく尻尾を振った。
「嫌! 行かないで。きなこ! 嫌よ、一緒にいたいのっ」
朱里だけを残して、周りの景色がひとつひとつ消えていく。テーブル、ソファー、お花。
「うっ、ううう……」
静かな世界に、朱里が嗚咽する声だけが響いている。
カウンター、壁、天井……やがて、きなこと大きな白猫の姿まで透け始めた。
もうお別れ。もう今度こそ会えない。
「残り僅かです。お客さま、お別れの挨拶を!」
朱里は最後の力をふりしぼり、袖口で涙を拭った。
「きっきっ……うっ、うぐ……きなごぉ、あ……あっ、ありがど……」
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