甲子園の土を持ち帰ってはならない

神楽堂

甲子園球場の土を持ち帰ってはならない

 甲子園球場に、試合終了のサイレンが鳴り響く。


 沖縄県代表の首里しゅり高校は、福井県代表校と対戦、善戦したものの、1対3で惜敗した。


 甲子園で敗退した高校は、甲子園の土を袋や瓶に入れて持ち帰る。

 これは、甲子園の風物詩といってもいい光景だ。


 かくして、沖縄県代表首里高校の選手たちも、泣きながら甲子園の土を袋に集めていた。


 沖縄は敗戦時にアメリカに占領され、その統治下にあった。

 そのため、夏の高校野球にはそれまで参加できないでいたのだった。

 しかし、ついに沖縄県も高校野球に参加することが認められ、1958(昭和33)年、首里高校は戦後初の甲子園、沖縄県代表校となったのであった。


 一回戦での敗退は無念であったが、全力で戦った結果であり、球児たちは万感の思いで甲子園の土を集めたのだった。


* * * * *


 高校球児たちを乗せた船は、那覇港に着いた。

 しかし、検疫所で告げられた事実は、高校球児たちを落胆させるものであった。


「本土の土はすべて捨ててください。沖縄県への持ち込みはできません!」


「どうしてですか! この土は甲子園に出場した思い出の土です! 青春の思い出です! 土を持ち帰って何が悪いんですか!」


「申し訳ありません。外国の土は沖縄には持ち込めないことになっております」


「甲子園は兵庫県にあります。外国ではありません!」


「……あのですね……あなたたち、沖縄県民なら分かっているでしょう。沖縄は現在、アメリカの統治下なのです。つまり、沖縄はアメリカなのです。兵庫県は日本です。沖縄から見たら、兵庫県は外国なのです。外国である兵庫県の土を沖縄に持ち込むことは検疫法違反となります。即刻、集めた土は廃棄してください」


「そんな……」


 甲子園大会に出場するためには、確かに首里高校の生徒達は「渡航証明書」を発行してもらう必要があった。いわゆる、「パスポート」のようなものである。

 沖縄県は米軍の統治下にあった。

 よって、法律もアメリカの法律が適用されていた。


 車は右側通行である。

 追い越し禁止の標識も、日本本土のものとは違い、左から追い越す矢印にバッテンが付けられたものになっている。

 飲み物の容量も、本土では1リットル単位で売られているが、沖縄ではアメリカ式に「ガロン」が使われている。4分の1ガロンである、946mLが単位となっている。


 沖縄県代表として甲子園に出たにも関わらず、自分たちは日本人として扱われていない……


 甲子園の土は外国の土だから持ち込めない……


 そんな理不尽が許されるのだろうか。

 しかし、法、そしてアメリカには逆らうことはできなかった。


 首里高校の生徒たちが甲子園球場で集めた土は、すべて没収され、那覇港沖の海へと投棄されたのであった……


* * * * *


 甲子園大会で負けたのは悔しかった。

 それは全力で戦った結果であり、どちらかが勝ち、どちらかが負けるのは勝負の世界である以上、仕方のないことである。


 思い出の土は没収され、捨てられてしまう無念。

 この悔しさは、いったいどこにぶつければいいのか……


 戦争は終わったのではなかったのか。

 沖縄はいつまで、アメリカの支配下におかれるのか。


 沖縄県代表という名誉と共に、生徒たちは、沖縄は日本ではないという現実も思い知らされることとなったのであった。


 首里高校が甲子園の土を持ち帰ることができなかったこの事件は、新聞等で大きく報道された。


 高校球児たちに罪はない!

 思い出の土を持ち帰って何が悪いんだ!


 世論は杓子定規な行政の対応に激しく反発した。

 しかし、日本は敗戦国である。

 戦勝国であるアメリカには逆らうことができなかった。


* * * * *


 ある国内航空会社のスチュワーデス(CA)は、この報道を知り、居ても立っても居られなくなった。

 青春を捧げて頑張った球児たちが、これでは報われないではないか。


 そのスチュワーデスは、甲子園球場を訪れると、管理人の了承を得て、甲子園の「石」を集め始めた。

 普通、高校球児たちが持ち帰るのは、甲子園の「土」である。

 しかし、そのスチュワーデスは、石を集めたのだった。


 そして、集めた甲子園の「石」を、郵送で首里高校へと届けた。


 なぜ石を集めたのか。


 検疫法では、外国の「土」を持ち込むことは認められていないが、「石」を持ち込むことについては規定がない。

 そのため、そのスチュワーデスが集めた甲子園の石は検疫を通過し、無事、首里高校に届けられたのであった。


 首里高校の生徒たちは、このスチュワーデスの好意に大いに感謝した。


 首里高校の先生たちは、この好意を無駄にしないために、届けられた甲子園の「石」をはめ込んだ、出場記念碑を建てたのであった。


 この話も、新聞で報道され、沖縄の厳しい現実が世間に広まることにもつながった。

 沖縄返還運動はより一層、盛んなものとなっていった。


 首里高校出場から14年後の1972(昭和47)年、佐藤栄作内閣総理大臣は、アメリカと交渉し、沖縄県の日本復帰を果たし、ノーベル平和賞を受賞したのであった。


 沖縄県は、日本の統治下に戻ったのである。

 沖縄県民は大いに湧いた。


 しかし、今日においても、沖縄県の面積の15%は米軍基地となっており、沖縄県民の生活や自然環境に大きな影響を与え続けている。


 沖縄の問題は、これからも国民の関心を集めていくことだろう。



< 了 >

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