致命的な質問

於人

致命的な質問

 貴女はなぜ猫を飼うのですか?という質問をされたとき、作家の向田邦子は「それはなぜ結婚しないのですか、という質問と同様に正確に答えるのはむつかしい」と答えた。僕はこれはなかなか上手い答え方だな、と思う。なんというか、すぐに答えが出ない質問に対しての身のかわし方がじつに上手い。わざとらしく考え込んでから「人類と猫がいかに共存してきたか」とか「あの夏目漱石も猫を飼っていました」とか長々と講釈を垂れるよりかは随分と聞き手の心持ちも楽だ。

 人は誰しも質問をされたり(もしくはそれを無理に突きつけられたり)するのは避けられないわけだが、そこでいかに巧みに的確に答えられるかは、時としてその人の沽券に大きく関わることになる。とうとうその質問がきたか、とかなり身構えるような「致命的な質問」は日常のふとした瞬間に、なんの予告もなく立ち現れる。

 京都の老舗喫茶店でこんなやりとりを聞いたことがある。店はガイドブックに必ずと言っていいほど紹介される人気店だ。こぢんまりとした店内の席は昼下がりには客でいっぱいになって埋め尽くされる。その日僕はカウンターでコーヒーを飲みながら、買ってきたばかりの真新しい小説を読んでいた。隣の席は二席わずかに空いていたが、それを除いて店内の席は客でぎっしり埋められている。

そこにちょうど二人組の外国人観光客が入ってきた。二人なんですが、と頭数を示すために手でピースをつくりながら。

「申し訳ないですが、今いっぱいです」マスターは言う。

しかしその一人が、引き下がらずに僕の隣にある空席を指して「そこが空いているじゃないか」と不満げに言った。

「それは僕が決めることです」。

何の躊躇もなく、マスターはそう看破した。客を店に限界まで詰め込んで「捌く」ことは店の信条に反するのだろう。まさに「看破」という言葉が相応しい受け答えだ。こういう芯のしっかりしたマスターの淹れるコーヒーは、味もそれに伴って確実なものである。

 信条だけではうまく答えにくい質問もある。純粋な心の内をそのまま言葉にして答えることは、本人としてもそう簡単なことではない。それにはどこか相手に分かりやすく伝えることを建前として、ごまかしのヴェールに信条や本音を隠す計らいも相まっているのではないか。そもそも話を聞く側もそれを求めていない──それが公に発表され、多くの人に容易に受け入れやすいものになることを目的としたインタビューである場合は特に。

 ある著名な文学研究者(彼は石川啄木を主な専門としていた)の方に、新聞のインタビュワーがこんな質問を投げかけた。

「現在、あなたが啄木を研究するのはなぜでしょう?」

「学生のころ、教わっていた先生の論文を読んで、これは越えられると思った。でも、いざ自分が論文を書くと、全然それを越えられなかった。これが僕の今研究をしている理由です」

 昨今の人文学系の研究者は、自身の研究分野が社会的にいかに役立つかを必死に強調するきらいがあるけれど、これはなんと率直で純粋な学問的動機なのだろうと感心してしまった。この方は、その後本人も気が付かないうちに指導教官を越え、啄木研究の大御所となった。まさしく大物の学者であった。

 先日、高校時代に所属していた文芸部の後輩から、連絡がきて相談を持ちかけられることがあった。後輩といっても、僕が卒業してからもう何年か経っている。はっきりした面識はない。進路に関する相談で、日本近代文学を勉強できる私立大学をどんな基準で選べばいいか、今あなたの通っている大学を選んだ決め手は何だったかを教えて欲しい、といったものだった。

 弱ったな。何しろ僕は適当な成り行きで大学を選んだので、入学を決めるときの「決め手」なんか考えてもなかったのだ。とにかく京都にある大学に通いたかった、という理由しかなかった。

 それで、入学した後になってから、興味のある近代文学の講座が充実していることが分かったものだから、なぜ今の大学を選んだのかを今更聞かれても、どうしようもないわけだ。さて、一体この質問をどうしたものだろう?

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致命的な質問 於人 @ohito0148

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