文字を飼う男

雪村リオ

文字を飼う男

 文字を飼う男に一度会ったことがある。

 男の名前を私は知らない。

 特徴も何もない男で、例え一日中行動を共にしても顔を思い出せないような平凡な容貌をしていたことしか覚えていない。その証拠に記憶に残るような異様な会話、今思えば一方的な語りだったが、鮮明に記憶しているにもかかわらず男がどんな格好をしていたのか、どんな風貌だったのかすら思い出せない、会話は一字一句思い出せるというのに。

 不思議な男に会ったのは今から一年程前である。

 蒸し暑い夏の日の夜だった。

 蝉の鳴き声が響き渡り、余計に暑さを助長させる状況に苛つき、八つ当たりに灰皿を投げて床に散らばった吸い殻を見て冷静になり怒りは多少収まったがじっと居ることも出来ず、吸い殻をそのままに家を出た。

 アスファルトの地面を街灯が照らし、白い道が浮かびあがっていた。

 昼の住宅街とは違い、夜の住宅街は不気味で寂寥感に苛まれた。昼は喧々としておりまったく別の場所の様に思えてしまう。

 暫く歩けば気にならなかった自身の足音が遅れて耳に入り、まるで得体の知れない人物が私を追ってくるように感じた。背後には誰もいないというのに。

 見えない何かに追われているような気分になって次第に歩く速度が速くなっていく。

 鼓動がはやくなり、呼吸が荒くなる。

 家に帰ろうとして家の方向へ足を向ければ、背後からカタンと、何か軽いモノが落ちた音がした。

 ビクンと躰を痙攣させ、音のした方向にゆっくりと振り向いた。

 恐ろしい化物がいるのではないか、そんな妄想が音の正体を見破るのを阻み、次第に恐怖心が肥大化していった。

 意を決して後ろを振り向く。

 振り向いた先には空き缶が転がっていた。

 ホッと息を吐く。

 正体さえわかればまったく怖くない。先程までの恐怖心は弾けて気が大きくなった。

恐怖心が消えて、今まで私は何をしていたのだ、物の怪なんてこの世にいる訳がないだろうと気を紛らわすため、酔っ払った人の如く陽気になって今にも歌を歌いだしてしまいそうな気分で夜の住宅地を歩き始めた。

 街灯が減り始め次第に夜が深まっていく。

 名前の知らない、そもそも名前すらないだろうと思われる公園に辿り着いた。

 公園内にはベンチが一つ、ブランコが二つ、後は小さな砂場があるだけで、昼の時間帯でも子どもが遊ぶのだろうかと疑問に思う程に小さな公園だった。

 少し疲れたと感じていた私はベンチに腰を下ろす。

 ほんの数分の間だけ休んで帰宅するつもりだった。しかし足が石化してしまったように固まってしまい体を動かせずにその場にとどまる。

 体が重く感じて疲れが一気にやってきたように感じた。

 最近、夜に眠れず仕事でもストレスが溜まるばかりで疲れが取れなかったのだろう。だが、忙しく疲労を自覚することがなかったが、気の抜けた今、突然疲労を思い出してしまい、ベンチと一体化してしまったように少しも体を動かすことが出来ない。

 何もすることが出来ない自分は頭を上げてぼんやりと夜空を眺めていた。

 山や晴れた冬の夜空なら綺麗な星々が見えただろうに、今見えるのはどんよりとした灰色の雲が点々と浮かび、一等星かそれに近いだろう輝きを放っている星しか目に映らない、なんとも詰まらない夜空であった。

 暖かい風が頬を撫でて通り抜けていく、鬱陶しいと風の感触を消すために頬を掻いた。


 多少疲れが取れたのかあれほどベンチから離れなかった体の重さも和らぎ、立ち上がれる。

 足元が覚束ないがこのままベンチで座り込んでいるより帰宅して布団で休んだ方が良いだろうと判断して家を目指した。

 ぼんやりと思考を空にして歩いていれば何かにぶつかり、目を凝らせば一人の人間だと気が付く。

「すみません」

 喉から声を絞り出してか細い声で謝り、相手から見えるかどうか判らないが一応頭を少し下げた。

「いいえ、こちらこそ申し訳ございません」

 恐らく四十代くらいであろう渋い声が暗闇からした。

 早々にその場を去ってしまおうとしたが相手は尻餅をついたままで妙な胸騒ぎがし、そのまま通りすぎてしまったら大変なことになる気がして手を伸ばした。

「大丈夫ですか?」

 と、声を掛けた。

「すいません、どうやら足を挫いてしまったようです。ご迷惑かと存じますが手を貸していただきたいのですがよろしいでしょうか? できれば家まで送ってもらえるとありがたいのですが……」

 男は申し訳なさそうに声を潜めて言う。此方もぶつかってしまったことにより怪我を負わせてしまった罪悪感もあり、何処にあるか分からない男の家に連れていくことにした。

「此方の不注意でもあるので家まで送りましょう」

「すみません、ありがとうございます」

 男は痩躯であり、疲労が残っているが肩を貸してもたいして苦にはならず、それに男の家は近く体感だが五分もかからずに家に辿り着いた。恐らくだが、男の方向と逆であったことから家から出たばかりだろうと思うと途端に申し訳なさがこみあげる。

 築何十年も経っていると思われる古いアパートの一階の一番左側にあり、二階ならば階段を上るのに苦労しただろうからこの男が一階に住んでいてよかったと胸を撫でおろした。

 玄関まで男を運び、帰宅しようとしたのだが、男に呼び止められた。別に怪我の治療を頼まれた訳ではない。どうやら私が疲労している様子を見て好意で休ませるためだそうだ。

 私を居間の椅子に座らせ男は隣の部屋に行ってしまった。

 見ず知らずの他人の家の居心地は悪く、余計に疲労感が増してしまう。

「お待たせしてしまい申し訳ございません。どうぞ、お茶です」

 男は足を引きずりゆっくりと二つの湯飲みを持って目の前に座った。

 緊張を誤魔化すために一口お茶を飲み込む。

 湯飲みをテーブルに置き、男をもう一度見た。

「こうして出会ったのも何かの縁です。誰にも言えなかったことですが、どうか私の話を聞いて下さい。私一人黙っているのが辛いのです……」

 悲痛な表情を浮かべる男に同情して話だけは聞いてみようかと、コクリと頷いた。

「私は文字を飼っているのです」

「は?」

 思わず声を漏らしてしまった。

 この男はきっと狂人なのだろう。夏の暑さにやられて気まぐれに散歩したせいで、不幸にも狂人に出会ってしまった。

 なんという厄日だろうか。

 自分の不幸を嘆いていると、そんな自分に気が付かずに男は話を続けた。


 コトの始まりは十年以上前に前に遡る。

 本好きの女性がいたのだ。

 その女性はジャンル問わずに読み続けた。これは予測にしか過ぎないけれど女性はきっと文字さえあればなんでもよかったのだろうと思う。

 異常なまでに本に執着した彼女は本以外には何も興味を示さなかった。

 ある日突然彼女は右目の視力を失った。彼女は原因不明の現象に本を読めなくなってしまうのではないかと恐怖して不安になり、病院へ駆け込んだ。

 医者は原因が分からず困り果てて彼女の目をじっと見始めた。

 うねうねと動く何かがあった。

 寄生虫や塵の類だと思ったが、違っていた。

 目の中に文字が住んでいたのだ。

 驚愕した医者は病ではない、治療できるのか判らないそれにどう対応していいか判断できなかった。しかし、彼女は治療を拒み喜んだ。

 「私は文字が好きなんです。だから右目の視力を失われた程度、どうでもいいのです」

 そういった後、病院に彼女が来ることもなかったよ。

 そして、彼女を診たという医者が私だ。

 彼女の目が忘れられず、大量の本を読むようになった。

 彼女と同じく文字の霊魂に憑りつかれたかったからだ。


 話を終えた胡乱な男の右目をじっと見た。どうせ文字を飼うなどという胡散臭い話は嘘に決まっているだろうが、見なければこの男はしつこく私に付き纏うだろうと思えたのだ。ならば素直に見て「おお、これがアナタの飼っている文字なのか」とでも言えば引き下がってくれると思ったのだが、私の予想は裏切られた。

 男は本当に文字を右目に飼っていたのだ。

 特定の文字ではない。漢字でもあり、ひらがなでもあり、カタカナでもある。そして、何処の国の文字かすらわからない、見慣れぬ文字でもあった。そして、単語でもあり、文章でもあり、意味のない言葉であり、意味のある言葉でもある。

 文字の霊魂とはよく言ったものだ。

 現実にはあり得ない状況を信じられず、目を凝らして男の右目を見詰め続けた。


 夢現の状態で帰路を歩いた。

ベンチの上で眠りこけてしまい私は夢を見ていたのではないか、もしかしたら今この場に私は居なくて、私の体は布団の上で寝ているままじゃないかとさえ思ってしまう。

 それほどまでに文字を飼っているという男が衝撃的で非現実的だったのだ。


 それからしばらく経った後、視界に違和感を覚えた。

 右目を閉じたが、何もない。左目を閉じれば、目の前が真っ暗になった。

 右目が突然見えなくなったことに慌てて鏡を通して右目を見た。

 洗面所に身を乗り出して右目を観察したが何もない。見慣れた黒い目だ。

 じっと何かあるに違いないと思って見続けていたら何か瞳孔に蠢く何かがあった。

 文字だ。

 男の飼っている文字と同じだ。

 文字の霊魂に憑りつかれてしまったのだ。否、男は飼っていると言っていた。ならば、私も文字の飼い主になったのか。一瞬そんな考えが思い浮かぶが、即座に否定する。

 あの男は文字を可愛がっていたようだが、私の右目は悍ましいものに乗っ取られてしまったのだ。

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 目を抉り、得体の知れない文字の霊魂を体外へ追い出そうとしたが手が震え顔にすら触れられない。

 これも文字の霊魂のせいなのか、それとも......。


 一年経った後も文字の霊魂に憑りつかれ続けている。右目が見えないという不便さがあるが、愛着が湧いて最近可愛いと思い始めている。

 だが、一つだけ不思議なことがある。

 私は本を読まないのだ。

 どうして文字の霊魂に憑りつかれてしまったのだろう。本当に文字の霊魂なのか、別の何かではないのかと疑ってしまう。

 そもそも文字の霊魂なんてものは存在するのだろうか?

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