第2話 「運命」とは?

 結局さあ、サリンジャーは、一体、何を皆に言いたかったのかは、これから『ライ麦畑でつかまえて』を、チマチマ、最後まで読んで行く事にしておいてね……。


 私は、この小説の題名を借りて、『ライ麦畑で語らせて』を、書き殴ってみたいだけなんだよな。


 あっと、誤解され無いで下さいよね。『ライ麦畑で入れさせて』と言う、超過激な、エロ小説ではありません。


 勿論、いずれ、『ライ麦畑で入れさせて』も書く予定、大いに有りなんだけども。イヤ、もっと過激の『ライ麦畑でのプレデター(捕食者)』も、頭の中にあるんだけどもね……。


 じゃ、一体、何を、「語る」のかと言えば、所謂「運命を事前に知る事は出来るのか?」や「運命を変える事は可能なのか?」と言う、多分、永遠に、答えの出ない究極の課題なのさ。


 じゃ、「運命」って、本当に有るのかって?


 そりゃ、あるに間違いが無いじゃないですか。


 例えば、信長、秀吉、家康の、この三人を見ただけで、もう、これこそ「運命」の存在を、もろに、象徴しているんじゃ無いの?


 天才か狂人かと言われた信長は、天下統一の目前で、明智光秀に殺された。

 その信長の草履取りからスタートした秀吉は、天下は取れたものの、自分の子供の代で、途切れてしまった。

 結局、家康が、最終的な勝者になったのは、日本人で誰も知らない者はいない。


 ここでだよ。


 もし、信長が、何らかの方法で、自らの運命を事前に知る事が出来ていれば、明智光秀のみを残して、自分の崇拝者の秀吉を備中高松城に送らなかったであろう。


 しかし、信長は、自らの運命を事前に知る事が出来なかったので、無念の死を遂げたのでは無かったのか?



 さて、このような、偉大な英雄達は別格としても、この私も、「運命」に翻弄された人生だったなあと、今日、この頃は切実に思うのだよなあ……。


 この私が、まず自分の「運命」を強く感じたのは、小学三年生の梅雨時で外で遊べないので、小学校の体育館で、私よりも一廻りも大きい相手と相撲を取っていた時なのだ。


 私は、生来の負けず嫌いでねえ、この私より遙かに大きな相手と相撲を取っていて、ほぼ、同体で床に倒れたのだが、運悪く、左膝から倒れ込んだ。更に床に運動マットは敷いて無かった。本物の板張りの体育館の床にだよ、倒れ込んだんだよ。 

 で、左膝を強打したものの、自宅へ帰ってから、「サロンパス」一枚を貼って放っておいた。


 それから、2週間は、何とも無かった。


 しかし、2週間後、朝起きてトイレへ行こうとしたら、左膝に激痛が走ったんだ。


 これは、変だと思い、親と一緒に有名な接骨院に通ったが、痛みは引かないんだな。等等、最後は、金沢大学医学部付属病院の外科にも行ったが、現在のように、CTやMRIも無い時代の頃である。


 遂に、大学病院の医師が付けた病名は、「ペルテス氏病」と言う、聞いた事も無い病名であった。(注:正式には、ペルテス大腿骨壊死病と言うらしいのだが……)


 で、問題は、その治療法が、またこれが酷いのだ。


 その大学病院の医者に言わせれば、このままでは左膝の骨が壊死して、左足がもう伸びなくなくなると言う。

 で、一番良い治療法は、大学病院に入院して、約1年間、ギブスをして左膝を固定するしか無いと言う。


 ちょ、ちょ、ちょっと待たんかいや。


 この医者、一体、何をトチ狂った事を言っているのだ。


 このまま、ほおっておけば、左足は、もう伸びなくなると言う。そりゃ良く分かるのだが、では、一年間休学して左足に大きなギブスをしていれば、右足はそのまま伸びて行くが、左足はギブスで固定されているため、やはり、一年間は左足は伸びないのだ。


 このような、どちらを取っても、左右の足の長さが違って来るのなら、一切の治療を諦めて、痛い足を引きずりながらも、毎日、小学校へ通うしかないじゃ無いのか。


 で、最低限、接骨院へは毎日のように通って、足をマッサージしてもらい、下呂の膏薬を買ってきて、左膝に貼ったものである。

 今になって思えば、多分、左膝の靱帯裂傷ぐらいであって、手術で、簡単に治ったんだろうけども。

 でも、当時は、MRIが無かったから、靱帯の様子は見られなかったんだよなあ。


 特に、一番、残念だったのは、体育の授業が、それ以降、全て「見学」だった事だった。


 これには、イヤハヤ、正直参りましたね。


 皆、生き生きと体育の授業を受けているのに、医師からは診断書が出ており、急激な運動は出来ないんだと。

 後年、三島由紀夫先生の『仮面の告白』を読んだ時に、この自らの身体の弱さが、やがて三島先生が、ボディビルや剣道の道に進んで行くのも、よく理解できたのは、人生で一番、身体を鍛えるべき時に、身体を鍛えられ無かったこの私にも、十分に納得できたんだよ。


 この時の、3年間弱の「体育の見学」は、やがて、中学三年生の時に、ものの見事に、私に襲いかかって来たんだよなあ。


 中学三年生で、修学旅行から帰ってきて1週間だったか2週間後後、少し熱が出たんだが、いつもなら即医者に飛んで行って、注射を打って治るまで布団を敷いて寝ているのに、その時は、中間試験が迫っていたので、市販の風邪薬を飲んで勉強していたら、数日後、血尿が出た。


 何と、風邪だと思っていたが、もともと病弱であったのに修学旅行で無理をして、初期症状が風邪によく似ている、溶血性連鎖球菌に罹患し、腎臓が炎症を起こしたのだ。

 で、国立病院に、5月中旬から7月末まで入院を余技なくされた。


 この事から、体力に急激に自信を無くし、歩いて5分で通える県内最低の普通科に進学したんだけどさあ、まあ、高校時代は、特に上級生から殺されかかったね。


 何しろ、200点満点(国、算、社、理、英で、各40点満点)での私の入学時の成績は193点、2位の女の子は135点であった。

 これじゃ、進学すれば、普通科のみならず、商業科も併設するこの高校の上級生からは、狙うべき絶好の「カモ」じゃねえかのかよ……。


 

 だがね、私の小学6六年生の時の担任の、Y先生は、どうもこの事を予感してみたいなんだ。


 ある遠足の時、バスの中でマイクを持って、Y先生は、この私に目を向けて大きな声で歌ったのだ。


 かっての歌声喫茶で流行った歌らしいのだが。


【若者よ  作:ぬやま・ひろし、『誌集 編笠』(昭和21年)】


「若者よ、身体(からだ)を鍛えておけ

 美しい心が、たくましい身体に

 辛(から)くも支えられる日が、いつかは来る

 その日のために、身体を鍛えておけ 若者よ」


 多分、人生で、最も頭の冴えていた頃でもあったこの私は、自分の頭の良さを信じて疑わ無かったんだなよなあ。でも、身体には、それ程気を遣わず、やがて、破滅への道を歩む事になるんだがなあ……。


 この時、担任のY先生は、既に、予感していたのかもなあ。


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