1-2 ボーイ・ミーツ・シャーク 2/2

 カルカロドン・カルカリス。またの名をホオジロザメ。

 肉付きの良い流線形の身体に、上下均等な三日月型の尾。

 その大きさ、強面、最大×肉食の肩書き……ハリウッドでは超ド級の悪役として優遇され、

その残忍な活躍ぶりで恐れ敬われる存在。

 イツキは数年前、立派なホオジロザメがダイバーと泳ぐ動画を見た。

 それが珍しい光景なのは確かだが、まさか自分がこうして体験するなど思いもしなかった。


 彼を連れたサメは光が届く浅瀬をのびのびと泳ぐ。

 不思議と、水中でも息ができた。


 暫くすると、色鮮やかな熱帯魚が泳ぐ温暖な珊瑚礁に入った。

 人懐っこい魚たちがイツキの周りを泳ぐ。

 彼が手を差し伸べると、極彩色の身体を擦り付けたり、その口で指先をつついたりした。

 愛らしい熱帯魚に笑みが零れるイツキだったが、

ふと巨大な影が落ちてきて、魚たちは珊瑚の隙間へ逃げ込んでしまった。

 見上げるとあのサメが、凶悪な口と白い腹を見せつけて悠々と泳いでいる。

(腹ビレの形からして、どうやらサメはメスらしい)

 イツキが再度サメの背ビレに掴まると、彼女は先ほどよりも早く尾を動かして

珊瑚礁を後にした。



 珊瑚礁を後にしたサメは、ケルプの茂った砂地へ降りる。

 差し込む光も疎らな青緑に濁った海底を泳ぐと、今度は船らしき残骸が

見えてきた。

 それは風を受けて航海する木造の船で、天を突くマストは海底の砂地から斜めに

生えていた。

 どうやら船は中央から真っ二つに大破して沈んだ様だ。

 周囲の淀んだ海流と得体の知れない薄暗さに、イツキは思わずサメの背ビレに

しがみつく。

 彼女は苔むした沈没船を避け遠回りに泳ぐと、光溢れる海面へと浮上していった。



 イツキは背ビレと共に海面から顔を出す。

 見渡す限りの青空と海で、島や人工物らしき物は一切見えない。

 すると、少し遠くの海面から水飛沫が上がる。

 再度サメが潜ると、澄んだ海洋の彼方に大きくぼんやりとした塊が見えた。


 クジラだ。ザトウクジラの親子が泳ぐ後ろ姿が見える。

 彼らはきっと、この広大な海を旅するのだろう。

 ある時は番を見つける為、またある時は子を育てる為……クジラの母子を守り

雄が寄り添う姿は、連休に子供を連れて遠出する夫婦の様でもある。


 彼女は泳ぐ速度を落とし、イツキと共にクジラの様子を遠巻きに眺める。

 暫くすると、親子クジラの周りに複数のザトウクジラが寄ってきた。

 恐らくはメスを求める雄クジラだろう。

 彼らは鼻息荒く水飛沫を上げて互いを威嚇した。

 遂には胸ヒレで叩き合ったり、水面から飛び上がっては別の雄へ覆いかぶさったりと激しく争い始めた。


 ――なるほど、近づきたがらない訳だ。

 イツキがそっと彼女の鼻先を撫でると、サメは満足げにクジラ群に背を向け泳ぎ

始めた。



 夕陽に染まる空と紺碧の海の情景が美しい。

 海と空の境界線を泳ぐサメとイツキ。

 ふと軽く潜っては、ウミガメや銀色に輝く魚群、愛らしいイルカを眺める贅沢な

ひと時だった。

 日も落ちて海の中も大分暗くなっている筈だが、不思議と今のイツキの目には鮮明に映った。


 そうして、彼らは徐々に深く潜って行く。

 イツキを伴ったサメは、すり鉢状のなだらかな傾斜を這うように進んだ。

 すると、その中央にほの暗い洞穴が現れる。

 その岩肌が覗く縦穴は何処かへ繋がっているらしく、穴から吐き出された海中の

塵がチラチラと舞い上がっていた。


 ……現実的に考えて、この水深まで潜ったなら相応に肌寒さを感じるだろうし、

特殊な呼吸法を身に着けなければ肺が縮んでしまう恐れもある。

 しかし(夢なのだから当然だが)イツキの身体にそういった変化は見られなかった。

 サメと深海デートだなんて実に奇妙な状況だが、それを上回る好奇心と海への

ときめきがイツキを突き動かしていた。


 サメは彼の期待に応える様に穴へと身を沈める。

 ふと異様な気配にイツキが前を見ると、不細工な顔のメガマウスがすれ違いに浮上していった。

 穴は潜ったり登ったり右へ左へと曲がりながら続いていき、曲がり角にはカニや

グソクムシが蠢いていた。


 やがて洞穴を抜けると、一寸先も見えない暗闇に出る。

 薄ぼんやりと見えるのは、細長く伸びた触手の束や発光するクラゲのイルミネーションだけ。

 彼女は崖伝いに底へと降りて行く。


 もしちっぽけなイツキが独りで迷い込んだなら、生きて帰る事も叶わない場所。

 彼はサメにピタリと寄り添い、その背ビレを両手で握り込んだ。


 海底には生物の亡骸が死の砂となって積もっている。

 砂を撫でる様に進むと、巨大なアーチ状の柱が見えてきた。

 それはどこか有機的で、至る所に小さな深海生物が住み着いていた。

 左右対称なアーチの下を潜り抜けると、今度は巨大な岩が見える。


 ……いや違う、どうやらそれらはクジラの骸らしかった。

 ここは命を落としたクジラの残滓が辿り着く墓場なのだ。


 その時、イツキらの背後から追い風の様に強い水流があった。

 見上げると、縦縞模様のある白い腹が見える。

 続いて全身を震わす歌声が響き渡った。

 まるで何かを願う様な、はたまた仲間を呼ぶ遠吠えの様な……

 その巨体はかつての仲間を慈しむ歌を歌いながら、尾ヒレを扇の様に仰いで

何処かへ行ってしまった。



 竜の墓を背に深き海を進む二人。

 海底が砂地から岩肌に切り替わったと思うと、奇妙な亀裂を見つける。

 恐らくは海底峡谷だろう。

 サメはその一端から亀裂へと更に潜った。


 流石にそこまで潜っては視界にも限度があるらしく、サメと己の身体以外は真っ黒に塗りつぶされ見えなくなってしまった。

 人知れぬ深い海の底でサメと二人きり。

 しかし、不思議とイツキは恐れなかった。

 ここまでの旅路で、彼女に敵意が無いのは明白だ。

 彼はサメに身を委ねた。


 すると、彼らの足元から一粒の小さな光が舞い上がった。

 青白く、しかし確かに発光しながら、それはイツキの頭上へ登って行く。

 そして彼が前方へ視線を戻すと、視界の下部からわらわらと青白い光が昇ってくるのが見えた。

 大自然のイルミネーションはあっという間に二人を覆い、それはまるで最深部へ

踏み込む彼らを祝福するかの如き光景だった。


 ……おそらくは発光するプランクトンの類だろう。

 サメの口に入った光がエラから漏れ出すのを見て、イツキは思わず笑みを零す。

 そうして二人は、海底峡谷の深部へとたどり着いた。




 峡谷を抜けた先には開けた空間があり、その光景の非現実的なあり様にイツキは

息を呑む。


 都市だ。真っ暗な空間に、摩天楼の夜景がある。

 まるで空中都市の様に、半円状の土台に高層建築が立ち並んでいる。

 その建築様式は遠くから見ただけでもカオスを極めていた。

 古今東西あらゆる年代の出で立ちが散見されたからだ。


 美しく整った瓦屋根の隣にコロッセオの様な幅のある壁が見えたり、

ニューヨークにありそうな古風なビルの四隅に狛犬が鎮座していたりと、やりたい

放題である。


 そして何より奇妙なのは、深い海の底だと忘れそうな程美しい月が都市上空に浮かんでいる事だ。

 その黄緑に発光する薄気味悪さを除けば、なかなか結構興味深い場所である。


 イツキとしては是非とも都市内部を案内して欲しい所だったが、サメは摩天楼に腹を向けて真上へと泳ぎ始めた。

 彼は『そんなご無体な!』とサメの胸ビレを引っ張るが、彼女は気にも留めず

ぐんぐんと浮上してしまう。

 気付けば都市ば遥か足元にぼんやりと形を残すまでになり、彼は思わずサメの背に顔を埋めて拗ねた。



 暫くサメに身を預けっぱなしのイツキだったが、その半身が空気に触れて顔を

上げる。

 サメは海面から頭部を半部程覗かせて空を見上げている。

 イツキも習って上空を見て、思わず感嘆の声を上げた。


 見渡す限りの星々に、鮮やかなオーロラが広がる夜空。

 二人は氷河に囲まれ澄み渡った海で、静かにオーロラを見上げていた。


「すごい……!」

 彼とて知識はあったものの、(例え夢でも)こうして間近で見る色彩のさざ波には心躍るモノがあった。


「……へへ、ありがとね」

 イツキはそっとサメに肩を寄せ、両手いっぱいに抱きしめる。

 すると、彼女は驚きと羞恥心でのたうち、まるでジャンプに失敗したオモチャの様にひっくり返ってしまった。

 バシャバシャと水飛沫を上げながら、イツキは楽し気に口角を緩める。

 それを見たサメも、頭を反らせて左右にユラユラと泳いだ。

 まるでその顔が笑っているかの様で、不思議と彼はサメを愛おしく思うのだった。




 そんなこんなで、二人の逢瀬はあの砂浜で終わりを告げる。

 空もすっかり明るんで、灰混じりの青紫色が淡く滲むマジックアワーが広がっていた。


 イツキのつま先が海底に触れる程の浅瀬。

 彼が手を離すと、サメは名残惜しそうにその尾ビレで彼をそっと撫でる。

 彼女は振り向く事無く、その背ビレを立派に立てて沖へと泳いでいった。

 イツキはどうしてか彼女から目が離せず、その背が見えなくなるまで手を振り続けた。




 目を覚ましたイツキは、はて奇妙な夢だと首を傾げる。

 野生のサメがあんなにも人間に懐くなど聞いた事もない。

 否しかし、ホオジロザメはダイバーにも人気だし、シャークケージなんかで人間

慣れしていてもおかしくは……

「うーん……無いな!」

 現実的に考えれば実に馬鹿馬鹿しい夢だったが、あの感動は本物だと彼は思った。 


 終わりの方で奇怪なモノを見た気もするが、起床して身支度を始めた頃にはその部分だけが曖昧にぼやけてしまった。


 良い夢を見た朝は気分が良い。イツキはいつも以上の活力を得て、今日も沖へ乗り出すのだ。

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