狂気を呑む者とカルカロドンの魔女

岡田リョウリュウ

1-1 ボーイ・ミーツ・シャーク 1/2

 三〇年前。ある漁船に数人の高校男児が乗り込む。

 所謂、職業体験というやつだ。

 その中にダイチという青年がいて、彼は漁船の船長の息子である。


 船はいつも通りに沖へ出て、学生らは船員と協力し網を引き揚げに掛かった。

 その際、ダイチは網に一メートルにも満たない小さなサメが掛っているのを見つけた。


 ダイチは持っていた万能ナイフを取り出し、こっそり網の一部を切る。

 そうして出来た穴から身を捩り、サメは大海原へと躍り出た。


「早く行けよ。それとも刺身にされたいか?」

 ダイチは口角を上げ、サメに目配せする。

 サメはダイチの顔をポカンとした間抜け面で見上げるばかりであった。


「この、バカ息子! 仕事道具を傷付ける奴があるか‼」

 ダイチの頭上に船長の拳骨が落ちる。

 実父に怒鳴られるダイチの背中を再度見上げ、名残惜しくもサメは海へ還った。




 そして現在、春の某日。

 漁村の男たちはいつも通りに漁へ出る。


 その中に二〇代真ん中くらいの若い男が一人。

 名をイツキと言って、過疎化が進む村で自ら漁師の道を選んだ男だ。

 同級生が皆県外へ就職し見栄え至上主義へと染まる中、彼は堅実に歩みを進めていた。


 元は医者を目指し都内の大学へ現役入学したイツキだったが、

奨学金で賄えない部分を補填するのが困難になりやむを得ず退学する。

 両親が事故で亡くなったからだ。


 遺された貯金は雀の涙。

 おまけに母親が借金持ちと判明し、悲しむ間も無く右往左往する日々。

 最後は学費どころか家賃さえ払えず、イツキは独りコンクリートジャングルで路頭に迷った。

 ……かと思いきや、父方の祖父が

「死んだダイチの代わりに家業を継ぐなら面倒を見てやる」と言うので、イツキは祖父の元で

漁師を目指す運びとなる。


 イツキはガリ勉だった。

 自室の本棚には医学やら心理学やら対話術の本、思い出のさかな図鑑や海の写真集まで、実に様々な書籍が収まっている。

 ディスプレイ台やデスクの端には臓器の模型に混じってサメやクラゲのフィギュアがあり、

部屋の一角には海洋生物の特番を撮り溜めたディスクが山積みだ。

 そんな彼の脳裏に焼き付くのは、幼い頃祖父と見た輝く海。

 朝焼けをキラキラと反射して息づく海だ。

 医者を志しても尚、海は彼を魅了し続けた。


 ……漁師というのは肉体面でも知識面でも覚える事が多く、おまけにえらく専門的。

『陸の役立たず!』などと嫁や子供に笑われる場面も多々ある。

 栄光に溢れた医者の道とは正反対の、しょっぱい職業なのだ。


 その仕事内容は……正直、イツキには物足りなかった。

 毎朝日の出と共に出航しては、獲って・仕訳けて・戻しての繰り返し。

 そんな日常で彼の底なし知識欲が満たされる筈も無く、

祖父に借り受けた自室では毎月本が増え続け今にも溢れ出しそうだ。


 朝早く家を出て、昼過ぎには帰宅し、本を読んでは買い漁る毎日。

 しかし不思議と、彼の表情は生き生きとしていた。


 いつだって船に乗り込めば、大いなる海が彼を迎える。

 どこまでも続く大海原と爽やかな潮風、澄んだ空気……そういったモノを味わう度、

『あぁ、なんて贅沢だろう!』といつも彼は胸を高鳴らせるのだ。

 溢れんばかりの幸福をその身に浴びて、イツキは今日も海へ出る。




 ある晩、イツキは夢を見た。

 彼はどこかの砂浜でユラユラと浅瀬に漂っていて、温もりのある柔らかな砂を穏やかな波が攫っていく。

 手を空にかざせば浅黒く焼けた肌と入道雲のコントラストが美しく、イツキは海に包まれる心地よさを満喫していた。


 その時。ふいに臀部を何かが掠っていく。

 浅瀬にしては結構な大きさだった。

 イツキは姿勢を変え辺りを見回すが、

景色は先ほどと変わらず、沖へ流されている気配も無い。


 と、何かが彼を真下から押し上げた。

 まるで犬猫がじゃれつくかの様に、何かがその巨体を擦り付けてくる。

 大方イルカや小型のクジラだろうと、イツキはそれの鼻先を撫でる。

 背ビレには擦り傷が無数にあり、根本が少し欠けていた。


 しかし哺乳類にしては随分と尖った背ビレだな……などと思っていると、

その近くに奇妙なモノを見る。

 傷だ。大きな裂傷が、胸ヒレの近くにいくつも入っていた。

 まるで巨大なカギ爪で引っ掻かれたよう。


 海の哺乳類は厚い脂肪を纏っているとは言え、こんな傷を負って生きていけるのか?

 ――正直、致命傷だと思う。


 そうこうするうちに、謎のデカブツは首をもたげこちらを見上げた。

 鼻先はハンチング帽のつばを肉厚にしたような形で、

目は光を吸い込む真っ黒さ、口は大きくナイフの様な歯がビッシリと並んでいる。


 デカい。

 五メートルは優に超える立派なホオジロサメだ。

 齧られたら一溜りも無いだろう。


 しかし奇妙な事に、イツキは特に恐れも無くサメを撫で続ける。


 サメは海の魚類の頂点に立つ捕食者だ。故に恐れを知らない。

 眼の前に物体があれば、それが亀の甲羅だろうがレジ袋だろうが

まず口に入れて確かめる。

 それに視力もかなり悪いので、サーファーのシルエットを水面下から見上げ

アザラシと勘違いする事もあるという。

 もし相手にがあるなら、

真っ先にイツキの胴体へ噛み付いて水中へと引き摺り込むだろう。


 だがしかし、サメにとって人間とはマヨネーズの無いキュウリみたいなモノだ。

 しかも場合によっては、仲間に復讐される事も有り得る。

 詰まる所『百害あって一利なし』なのだから、

彼(もしくは彼女)がこうしてコミュニケーションを図るには理由があるかもしれない……。

 そうしてイツキがサメの鼻や背中を優しく撫で続けると、サメは犬猫がやる様に胴体を擦り付け、

「こちらへ来い」と振り向く。

 試しに背ビレへ掴まると、サメはイツキを連れて広大な海を泳ぎ始めた。


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