第5話 別離

《Sting 1-1, this is Luijiang Command Control.》

(スティング1-1、こちら瑞江ルイジャン基地司令部)


 司令部からの呼びかけは、予定通り演習を開始しようとした矢先のことだった。


《Single Group BRAA 220/60, 19 thousand, hot, bogey.》

(一グループの反応、貴機から方位220、距離60マイル、高度19000フィート、そちらへ接近中の不明機だ)

《Sting 1-1, roger.》

(スティング1-1、了解)


 演習で上がったわけだけれど、緊急発進の予備機でもあるので実弾を搭載している。そもそも、この空域はミャンマーの「群体」と雲南の航空部隊が幾度も衝突している最前線だ。旋回して再度アフターバーナーに点火し、超音速飛行。


 折よく、虎の子の早期警戒機A W A C Sが付近を飛んでいて——つい先日、ミャンマー側の空爆で破壊された防空レーダーの穴を一時的に埋めていた——不明機の情報が送られてくる。レーダー上に現れた二つのシンボル。狭まる彼我の相対距離は50マイル、45マイル、40マイル……妙な胸騒ぎを感じていた。


 背後に回り込んで接近。なおも不明機は直進し続ける。その針路上に瑞江ルイジャン基地があった。あれが敵機でも、たった二機で基地を襲いにいくような愚かな真似をするとは思えないけれど……。


 拍子抜けするほどあっという間に短距離ミサイルの射程内に。接近して識別せよと指示が飛んでくる。敵味方識別装着I F Fで不明機と表示されても敵機とは限らない、何らかの理由で応答しない友軍機の可能性もある。


 万年雪を被った峰々を眼下にのぞみつつ、雲を二、三度突き抜けたとき、目の間に浮かんでいたのは二機の戦闘機だった。


「Mig- 29!」


 青と水色の迷彩をまとった、双発の小型戦闘機。J-11より一回り小さい。尾翼に黄色と白と緑の三本線。明らかにミャンマー側の航空機だった。私は先行する一番機を、僚機は二番機を狙う。ターゲット指示カーソルT D Cが機影と重なる。ロックオン。自動的に単一目標追尾モードS T Tに移行。


《Luijiang, Sting 1-1, tally two Fulcrums》

(司令部、こちらスティング1-1。Mig- 29二機を視認)

《Roger. Stand by for a minute.》

(了解。しばし待機せよ)


 流石に何かおかしい。司令部の人間たちは何をもたついているのだろうと思わずにはいられない。仮に目標が囮か何かだったら——


 国際緊急周波数への唐突な呼びかけはその時だった。


《Yunnan aircraft, Yunnan aircraft. We have no intention of attacking you. We’ ll disarm and follow you. I say again……》

(雲南機、雲南機。我々に攻撃の意志はない。武装解除しそちらに帰順する。繰り返す……)


 続いて二機のMig- 29がバンクを振り始める。

 酸素マスクの中で、束の間ぽかんと口を開けていた。


 司令部から基地まで誘導せよと指示が飛んでくる。フライトグローブをはめた手で頬をつねりたい気分だった。僚機のパイロットもわざわざ指示内容を再確認してきた。


 体だけは指示通りに動いていく。機体を前に出して瑞江ルイジャン基地への誘導を開始し、数分後には近場を飛んでいた友軍機も合流してMig- 29を取り囲む格好になった。ミャンマー機の亡命はたしかに前代未聞の出来事だけれど、いつまでも驚きっぱなしではいられない。目の前の現実を淡々と処理するのみだ。


 ミャンマー機の気まぐれでこちらが蜂の巣にされるようなこともなく、瑞江ルイジャン基地への強制着陸が完了するまで恐ろしいほどスムーズに事態は進行した。





「この湖にはね、結ばれなかった恋人たちが眠っているんだって」


 石造りの眼鏡橋の上で、春燕チュンエンが唐突にそんなことを漏らすものだから目を見開いてしまう。あ、違う、そんなつもりじゃないよと慌てて手を振る春燕チュンエンに苦笑いを返しながら、


「本当に何でも知ってるのね」

「何でもじゃないよ、分かることだけ」


 そう言って視線を落として、


「好きな人ができても必ず結ばれるわけじゃない、引き裂かれるくらいなら、この湖に飛び込んで別の世界に行こう、って——ほら、お山が映ってるでしょ」


 春燕チュンエンが指で示した湖面には、夕陽に照らされた玉龍雪山ユーロンシュエシャンが映り込んでいる。それに向かって飛び込めば何者にも邪魔されない新天地へ旅立てると、その昔、数多の若者たちが信じて欄干を飛び超えた。でももっと大昔はそんなことはなかった、好きな人と一緒になれるのがこの町では当たり前だったんだって。春燕チュンエンの言葉に、なるほどねと頷く。


「改土帰流の犠牲者ね。可哀想に……」

「かい……?」

「何百年も前のお話。漢民族の文化を押し付けられて自由な結婚が出来なくなったのね」


 瑞江ルイジャン基地に着任してから受け持った、最初の訓練生たちから教えてもらった歴史だった。龍族の文化も歴史もまるで知らなかった私にとっては、彼らも師と仰ぐべき存在だった。今では彼らも後輩たちの指導役になっている——当時に比べればこの街もかなり穏やかになったものだ。三日に一回は空襲警報が鳴っていたあの頃、死の臭いは古城の家々や路地裏にまで入り込んでいた。


 橋を渡った先の東屋から琴の音色が流れてくる。つられて私が歩き出したのと、その袖を掴まれたのはほぼ同時だった。


「ねぇ……」

「ん?」


 だが返事はない。俯いた春燕チュンエンの顔を覗き込むと、その視線がますます下がってしまう。ほんのり赤く染まった頬に手を伸ばすと彼女はびくりと震えた。心配してるんだよ、とややあってから小さく口を開いて、


「……一緒にいられなくなったらどうしようって……」

春燕チュンエン?」

「昨日だって、大変なことが起きたって聞いたし……」

「ああ……それならもう大丈夫だよ」


 嘘ではない。亡命してきたミャンマーの「群体」のパイロットたちは着陸後すぐに拘束されたものの、驚くほどこちらに従順で、週明けには臨時首都へ移送されることになっていた。接収した二機のMig- 29は、警備兵が周囲を固める耐爆格納庫で翼を休めていた。すでに特別整備班が編成されていて、今頃は色々と弄り回されていることだろう——


「だから、そうじゃなくて」


 春燕チュンエンの頬がぷくりと膨らんでいる。


輝華グイファのことが……心配……」

「……ごめんね」


 とぼけたつもりはなかった。

 旅立ち前の少女を泣かせたくはない。


 無意識のうちに互いの体を引き寄せていた。頭一つ分高い私の体に、春燕チュンエンがぐっと抱え込まれる。安心して行っておいでと、姉のような口調で優しく語りかける。


 春燕チュンエンのチベット行きの意志は尊重することにした。口添えする、と彼女に約束した時は、正直なところ手放したくないという思いが幾分かあった。けれどそれでは駄目だ——


「私なら本当に大丈夫」


 それに、と言葉を継いで、


春燕チュンエンの旅を咎めたりなんかしない。どこにいても私たちはつながっている」

「うん……」


 それ以上の言葉は、黄昏時の空気に溶けていった。



                  *



 輝華グイファに見送られてから三日が過ぎた。


 まだ六月だというのに、山越えは雪との戦いだった。自動小銃を持った馬幇マーバンたちが近くの集落に助けを求めに行かなければみんな凍死していただろう。チベット系の男たち数人とともに戻ってきた彼らはヤクを引き連れていて、ようやく道を切り開けるようになった。降り積もった雪を大きな角で押しのけるヤクに続いて、馬幇たちが再び歩き出す。


 祖父が男たちに何度も礼を言う姿を、後ろから何とはなしに眺めていた。よくよく聞くと、男たちは一切礼を受け取ろうとしないのだった。そんなことよりもうすぐ峠だ、足を滑らせないでくれよと。功徳を積むことは彼らにとって、呼吸と同じくらい当たり前のことらしい。


 祖父は茶葉を、私はチベットへの支援物資を、自分の背丈と同じくらいの量も背負い込んで雪路を踏みしめて行った。この先の峠を越えれば平原に出られる、宿場町もある。だがあまり先のことばかり考えると山登りは辛くなる。何度か荷を持ち上げながら、無心で一歩一歩踏み出していた。男たちが残す足跡を私も踏んでいく。時たま見上げる曇天から、唸り声のような鈍い音の響きが聞こえる。


 かつて輝華グイファもこの道を通ったのだと思うと、改めて彼女のバイタリティを思わずにはいられなかった。あの温かな両腕に包まれている間は忘れてしまうけれど、成層圏の高みまで超音速戦闘機と共に駆け上がるのが彼女の本分なのだ。我が身より遥かに大きな存在に守られている——物思いに耽っていたとき、不意に空が騒がしくなった。


 男たちも足を止めて空を見上げていた。雲の向こうに何か光るものが見えた瞬間、鼓膜を突き破るような爆発音が辺りに轟いた。


 大気を切り裂く爆音が耳をつんざく。明らかにジェットエンジンの音だ。

 男たちの吐息が荒くなる。ヤクの一頭が悲鳴のような鳴き声をあげた。


 それでも進める道は一本しかない。時たま天を仰ぎながら一行は再び歩み出した。また新たな爆発音がどこかで響く。雲の上も下も戦場だ、と思う。世界がこのまま真っ白になっていくような気がする。ふと背後を振り返らなければ、ずっとそう思い続けていたかもしれない。


 垂れ込めた雲を突き破って、それは現れた。最初、それは鳥のように見えた。だが火を吐く鳥などこの世にいるのだろうか、とぼんやりと疑問を浮かべた時には炎上する戦闘機が間近まで迫っていた。逃げろ! と、誰かが叫ぶ。前触れもなく祖父に手首を掴まれて雪原にのめり込んだ直後、灰色の巨体が私たちの頭上を掠めた。


 数秒で気がつく。口に入った雪を吐き出して、生まれたての子鹿のような足取りで立ち上がる。


 顔を拭って目を開けると、炎が霞んで見えた。その傍にそびえる二つの、数字が書かれた、大きな尾翼——怪我はないかと、祖父が声をかけてくる。親指を立てて答えてから、目をこする。炎がくっきりと見えて、雪原に散らばった金属片が視界に入った。飛行機に疎い私にも、それがなんであるかは一目で分かった。先頭を歩いていた男が大きく両手を振りながら何事か叫んでいる。


 その叫び声が聞こえるよりも先に、体が勝手に動き出していた。途中で荷物を降ろして駆け足になる。叫ぶ男の傍も通りすぎて、はっきりとそれを見た。流線形の胴体、ひび割れたキャノピー、血に染まったヘルメット……突然腰の力が抜けて、膝から雪に突っ込んだ。


 救助部隊のヘリが飛んでくるまで、雪はしんしんと降り続けていた。

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