第2章 中国編(2025年)
第4話 旅路
「おじいちゃんは
石畳の水路で体を洗う祖父に羨望の眼差しを向ける
「
「そう……だから、
そう言ってぷくぅっと膨らむ頬を指先でつつくと、
「それはそうよ。
煩悩(と呼んでいいものか)を払いのけながら少しだけ人生の先輩ぶって答えてみる。かつて私も同じ夢を抱き、それを成し遂げた——万年雪を被った峰々を超えて中国南西部・雲南の
そんな男たちの隊列に、よく向こう見ずの勇気だけで飛び込んだものだなあと、我ながら思う。だがあれは間違いなく、今の己の原点になったという自負もあった。人と人を、地と地を繋ぐことの困難さを、高山病に苦しめられながら華奢な体で学んだものだ。
「それでも行きたい、って言うんなら、私から口添えしてあげてもいいけど」
途端、
「
「うまくいかなくても怒らないでね」
「うん、うん」
すっかりその気になってしまった妹分の、はじけるような活発さが眩しい。瓦屋根の軒先を通り抜けた風が、彼女の黒髪をなびかせた。
既存の有人戦闘機に
旧中華人民共和国・雲南省臨時政府の主力戦闘機、J-11の無人化計画もそういう経緯で生まれた。在りし日の
《Sting 1-1, Wind 180 degress at 5 knots. Runway 24, cleared for takeoff.》
(スティング1-1、風向180度、風速5ノット。滑走路24からの離陸を許可)
「群体」と人類の生存競争が長引くことで戦争経済は潤った。中国空軍時代の「八一」の二文字を受け継いだ機体は臨時政府軍の所属だけれど、実際に操縦する私たちは
離陸許可を受けて二機のJ-11が滑走路に進入する。胴体となめらかにつながる主翼。推力変更ノズルに双垂直尾翼。コックピット下部まで伸びたストレーキ。キャノピー前方にほくろのように飛び出した
《Sting 1-1, cleared for takeoff.》
(スティング1-1、離陸許可、了解)
管制塔からの指示を復唱し、ブレーキを踏み込んでからスロットル・レバーを前方へ押しやる。ターボファンエンジンの咆哮。出力を確認してからスロットルをさらに前へ。頭を前方に降り、後方の僚機と同時にブレーキを解除。アフターバーナー点火。
凄まじい加速で射出座席に縛りつけられる。ローテーション。操縦桿を引くと同時に身体がふわりと浮く感覚。ギアアップ。さらに機首を持ち上げて、二羽の巨鳥が天空へと翔け上がる。
バックミラーに映る僚機。そのはるか下方に広がる、黒瓦の家々が並ぶ
かつて世界遺産にも登録された瓦屋根と石畳の古城。
私がまだ中国空軍の籍だった頃は、
《Sting 1-1, contact Luijiang Command Control.》
(スティング1-1、以降は
《Roger.》
(了解)
目標高度で水平飛行に移り、アフターバーナーを切る。雲間を抜けて、演習空域までひたすら巡航。
ふと頭を動かしたとき、ヘルメットに描いた少女の横顔がキャノピーにうっすら映り込んでいることに気がついた。
私がこっそり撮った写真と睨めっこしながらなんとか描き上げた、彼女の横顔だ。
柳の下、赤いランタンを吊るした軒先に立つ彼女を目に留めたのが全ての始まりだった。そのまま水路で洗濯を始めた彼女の手から、手を離してしまったのか、服が一枚だけこちらの足元にまで流れてきた。木の板を渡しただけの橋の上から手を伸ばして服を掴んだとき、初めて少女はこちらに気づき、小さな声を漏らした。
少女も全く同じ反応を示していた。ごく自然な流れで洗濯を手伝い、そのお礼にと少女が祖父と共に営む土産屋に招かれるまで十分とかからなかった。
「
少女は名乗った。互いに下の名前で呼び合うようになるのはその数ヶ月後のことだ。
休暇を利用して訪ねる度に、
「今はお土産だけじゃ儲からないからって、おじいちゃんが言ってたの」
だから味見をお願いしているんだー、と
晴れた日には、浅い水路の前の段差に二人並んで腰掛けていた。この水路を定期的にわざと氾濫させて、石畳の街路の汚れを洗い流すと
「魚になってあの水路に飛び込んだらどこまで行けるかなって、時々思うの……別にこの街が嫌いってわけじゃないよ」
「言いたいことは分かる」
そっと肩を抱き寄せて、彼女の髪を弄りながら、
「外の世界が気になるのね」
「そう、そう」
「上海って、すごく大きな街だったんでしょ」
「街というより都市ね。もう、あの辺りは完全に、私たちが住める場所じゃなくなっちゃった」
上海一都市の騒ぎではなかった。中国大陸沿岸部から広がり始めた「群体」が瞬く間に内陸部へ侵食していったのは悪夢以外の何物でもなかった。あの時代、世界各国で民族主義だか愛国心だかが異常なほど高揚していなければ、人類の歴史はもう少し違った展開を見せていたかもしれない。
「『群体』って何なの?」
「うーん……」
しばらく天を仰いでから、
「元の意味は『数多くの個体から形成され、一つの生物であるかのように振る舞う集団』かな——」
どう噛み砕いて説明したものやらと悩みながら、
「『自分たちは同じ国の人間ー、他の国の悪いやつらに負けないように、みんなで一つになろー』……そんなことを言い続けていたら、心が消えて、というよりお互いの心に飲み込まれて、操り人形になってしまった人たちのことね」
そうして世界中の国々が「群体」に飲み込まれてしまった。かなり歪ではあるけれど、人類の進化形の一つのあり様だと私は解釈していた。だから自分たちは戦争ではなく、生存競争の只中にいるのだ、と。目下の敵は隣接する中国の「群体」とミャンマーの「群体」で、特に雲南南部のミャンマー側からの攻勢はここ数年激しさを強める一方だった。
「でも急にどうしたの?
「だっておじいちゃんがまた
その一言だけでおおよその事情を私は察する。
空輸作戦は継続されていたし、戦闘機による護衛も行われていたものの、ミャンマーの「群体」に奇襲されるケースが年々増えていた。こちらも手を
「大丈夫、そのために私たちがいるのよ」
水路の音だけが、しばらく辺りを満たした。
うるさいね、と、不意に
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