第2章 中国編(2025年)

第4話 旅路

「おじいちゃんは馬幇マーバンだったから、チベットの街並みも拉薩ラサの都も見たことがあるって。いいなあ」


 石畳の水路で体を洗う祖父に羨望の眼差しを向ける春燕チュンエンがもぞもぞと動く。流れるようなその黒髪を撫でながら膝枕をする時の私の表情は、瑞江ルイジャン基地の仕事仲間たちにはとても見せられない。水路沿いの、柳の垂れる細路に馬を引いて入ってきた男たちもちらちらとこちらに視線を向けている。半ば猫を撫でているような気分を覚えながら、


春燕チュンエンはずっとこの街で暮らしてきたのかい?」

「そう……だから、輝華グイファみたいに外の世界が見たいの。私も拉薩ラサまで行きたいっておじいちゃんに頼んだけど、『お前はまだダメだ』って……」


 そう言ってぷくぅっと膨らむ頬を指先でつつくと、春燕チュンエンは声にならない声を出しながら膝に顔を擦り付けてくる。何気ない仕草の会話を交わすたびに互いへの独占欲ばかりが強まっていく。歳も体躯も春燕チュンエンを上回るはずの私はしかし、屋内で二人きりになる度にいつも春燕チュンエンに押し倒されていた。恋愛感情を上回る何かを、彼女が跨った腰をきつく締め付けられる度にひしひしと感じていた。


「それはそうよ。馬幇マーバンなんて誰にでも務まる仕事じゃない」


 煩悩(と呼んでいいものか)を払いのけながら少しだけ人生の先輩ぶって答えてみる。かつて私も同じ夢を抱き、それを成し遂げた——万年雪を被った峰々を超えて中国南西部・雲南の瑞江ルイジャンからチベットの拉薩ラサまで馬やヤクと共に踏破する、往復半年以上の過酷な旅を耐え抜いたのだ。その昔、雲南の普洱プーアル茶を運んだこの道は茶馬古道ちゃまこどうと名付けられた。強靭な体と精神力、漢語やロン語のみならずチベット語に通じていること……古道を行く馬幇マーバンの男たちには様々な力が求められた。


 そんな男たちの隊列に、よく向こう見ずの勇気だけで飛び込んだものだなあと、我ながら思う。だがあれは間違いなく、今の己の原点になったという自負もあった。人と人を、地と地を繋ぐことの困難さを、高山病に苦しめられながら華奢な体で学んだものだ。


「それでも行きたい、って言うんなら、私から口添えしてあげてもいいけど」


 途端、春燕チュンエンが跳ね起きる。まどろみで乱れた髪を直しもせずに私の目を見つめてくる。落ち着いて、と思わずこちらが身を引いてしまうぐらいに。


輝華グイファが頼んでくれるの?」

「うまくいかなくても怒らないでね」

「うん、うん」


 すっかりその気になってしまった妹分の、はじけるような活発さが眩しい。瓦屋根の軒先を通り抜けた風が、彼女の黒髪をなびかせた。





 既存の有人戦闘機に人工知能A Iを積んで無人機化する計画は、十分な数の無人機が揃うまでのその場しのぎの策でしかなかった。当然と言えば当然だろうが、「群体」に目をつけられる危険を冒してまで、最新鋭の無人戦闘攻撃機U C A Vを、国を失ったような人間たちに気前よく売ってくれるメーカーなど存在しない。そもそも今の私たちにとっては機体が高価すぎるというのもあったが。AIだって決して安価ではないが、「群体」発生以前の時代に比べれば随分とお手頃な価格まで下がってはいた。


  旧中華人民共和国・雲南省臨時政府の主力戦闘機、J-11の無人化計画もそういう経緯で生まれた。在りし日の人民解放軍空軍中 国 空 軍から引き継いだ機体に、貧乏な臨時政府でも入手できるような汎用AIを搭載したのはいいものの、導入してしばらくの間はパイロットが空中戦や爆撃のやり方をAIに教えなければならない中途半端な存在になってしまった。臨時政府軍のパイロットたちは新人ばかりだ、じゃあ教育係の熟練パイロットたちに任せればいい──私たちが新人教育だけでなく、日々も送っているのはそういうわけなのだった。


《Sting 1-1, Wind 180 degress at 5 knots. Runway 24, cleared for takeoff.》

(スティング1-1、風向180度、風速5ノット。滑走路24からの離陸を許可)


「群体」と人類の生存競争が長引くことで戦争経済は潤った。中国空軍時代の「八一」の二文字を受け継いだ機体は臨時政府軍の所属だけれど、実際に操縦する私たちはアメリカ資本の民間軍事会社C C A Sに勤めている。


 離陸許可を受けて二機のJ-11が滑走路に進入する。胴体となめらかにつながる主翼。推力変更ノズルに双垂直尾翼。コックピット下部まで伸びたストレーキ。キャノピー前方にほくろのように飛び出した赤外線捜索追尾センサーI R S T


《Sting 1-1, cleared for takeoff.》

(スティング1-1、離陸許可、了解)


 管制塔からの指示を復唱し、ブレーキを踏み込んでからスロットル・レバーを前方へ押しやる。ターボファンエンジンの咆哮。出力を確認してからスロットルをさらに前へ。頭を前方に降り、後方の僚機と同時にブレーキを解除。アフターバーナー点火。


 凄まじい加速で射出座席に縛りつけられる。ローテーション。操縦桿を引くと同時に身体がふわりと浮く感覚。ギアアップ。さらに機首を持ち上げて、二羽の巨鳥が天空へと翔け上がる。


 バックミラーに映る僚機。そのはるか下方に広がる、黒瓦の家々が並ぶ瑞江ルイジャンの街並み。

 かつて世界遺産にも登録された瓦屋根と石畳の古城。玉龍雪山ユーロンシュエシャンの雪解け水が潤す水の都。


 私がまだ中国空軍の籍だった頃は、瑞江ルイジャンという街を険しい山の中の桃源郷として美化していた。実際、中華人民共和国の崩壊以前は数多の都会人たちが命の洗濯のためにやって来——押しかけてきた。「群体」発生後に観光客の数は当然激減したけれど、街路や水路が汚されることに辟易していたロン族の人々が内心安堵していたことはかなり後になってから知った。


《Sting 1-1, contact Luijiang Command Control.》

(スティング1-1、以降は瑞江ルイジャン基地司令部にコンタクトせよ)

《Roger.》

(了解)


 目標高度で水平飛行に移り、アフターバーナーを切る。雲間を抜けて、演習空域までひたすら巡航。

 ふと頭を動かしたとき、ヘルメットに描いた少女の横顔がキャノピーにうっすら映り込んでいることに気がついた。

 私がこっそり撮った写真と睨めっこしながらなんとか描き上げた、だ。





 柳の下、赤いランタンを吊るした軒先に立つ彼女を目に留めたのが全ての始まりだった。そのまま水路で洗濯を始めた彼女の手から、手を離してしまったのか、服が一枚だけこちらの足元にまで流れてきた。木の板を渡しただけの橋の上から手を伸ばして服を掴んだとき、初めて少女はこちらに気づき、小さな声を漏らした。


 ロン族の装束の色遣いは美の引き立て役だった。茜色の上着に白い腰巻き、重ね着された山吹色のミニスカート。それを纏う人形のような少女。服を手渡そうとして手が止まり、指の間から水が滴り落ちた。


 少女も全く同じ反応を示していた。ごく自然な流れで洗濯を手伝い、そのお礼にと少女が祖父と共に営む土産屋に招かれるまで十分とかからなかった。


宣春燕センチュンエン


 少女は名乗った。互いに下の名前で呼び合うようになるのはその数ヶ月後のことだ。


 休暇を利用して訪ねる度に、春燕チュンエン普洱プーアル茶を——それも特に高級な部類を出してきた。時には甘いバター茶も出てきて、聞けば自分にはチベット系の血が四分の一混じっていると春燕チュンエンが明かした。足を運ぶたびに、振る舞われる料理のレパートリーも増えた。千層餅に豆ごはん、お米の腸詰め、小豆のこし餡をかけたヨーグルト……。


「今はお土産だけじゃ儲からないからって、おじいちゃんが言ってたの」


 だから味見をお願いしているんだー、と春燕チュンエンは瞳を輝かせていたものの、増設されたばかりの小綺麗な食堂のメニューをただで振る舞われるのは流石に罪悪感があった。とはいえ無償の好意を無碍にしたくないという思いもあって、春燕チュンエンの祖父にこっそりと、幾分多めに調理代を手渡していた。


 晴れた日には、浅い水路の前の段差に二人並んで腰掛けていた。この水路を定期的にわざと氾濫させて、石畳の街路の汚れを洗い流すと春燕チュンエンから聞いた時は流石に驚いた。玉龍雪山ユーロンシュエシャン金沙江ジンシャージャンからの分流がもたらす水の恵み——


「魚になってあの水路に飛び込んだらどこまで行けるかなって、時々思うの……別にこの街が嫌いってわけじゃないよ」

「言いたいことは分かる」


 そっと肩を抱き寄せて、彼女の髪を弄りながら、


「外の世界が気になるのね」

「そう、そう」


 春燕チュンエンは頷きながら、例えば輝華の生まれた街とか……と言いかけて、


「上海って、すごく大きな街だったんでしょ」

「街というより都市ね。もう、あの辺りは完全に、私たちが住める場所じゃなくなっちゃった」


 上海一都市の騒ぎではなかった。中国大陸沿岸部から広がり始めた「群体」が瞬く間に内陸部へ侵食していったのは悪夢以外の何物でもなかった。あの時代、世界各国で民族主義だか愛国心だかが異常なほど高揚していなければ、人類の歴史はもう少し違った展開を見せていたかもしれない。


「『群体』って何なの?」

「うーん……」


 しばらく天を仰いでから、


「元の意味は『数多くの個体から形成され、一つの生物であるかのように振る舞う集団』かな——」


 どう噛み砕いて説明したものやらと悩みながら、


「『自分たちは同じ国の人間ー、他の国の悪いやつらに負けないように、みんなで一つになろー』……そんなことを言い続けていたら、心が消えて、というよりお互いの心に飲み込まれて、操り人形になってしまった人たちのことね」


 そうして世界中の国々が「群体」に飲み込まれてしまった。かなり歪ではあるけれど、人類の進化形の一つのあり様だと私は解釈していた。だから自分たちは戦争ではなく、生存競争の只中にいるのだ、と。目下の敵は隣接する中国の「群体」とミャンマーの「群体」で、特に雲南南部のミャンマー側からの攻勢はここ数年激しさを強める一方だった。


「でも急にどうしたの? 春燕チュンエンが『群体』のことを聞くなんて珍しいね」

「だっておじいちゃんがまた拉薩ラサに行くって言ってたから……」


 その一言だけでおおよその事情を私は察する。春燕チュンエンの祖父が茶馬古道ちゃまこどうを行く馬幇マーバンで、「群体」発生以前から何度もチベットへの旅を経験している古強者であることはすでに聞き及んでいた。数千キロにわたる太古からの交易路が抗日戦争の時代と同じ役目を負ったこと——敵の手に落ちた幹線道路に代わる、唯一の輸送路になったことも。


 空輸作戦は継続されていたし、戦闘機による護衛も行われていたものの、ミャンマーの「群体」に奇襲されるケースが年々増えていた。こちらも手をこまいていたわけではなく、私はすでに七機も撃墜していた——他の傭兵パイロットたちも同じくらいのスコアを稼いでいて、つまりそういうことなのだった。だから陸路を、となったものの、ミャンマー側だって空対地兵器を積んだ戦闘機を飛ばさないほど愚かではない。


「大丈夫、そのために私たちがいるのよ」


 春燕チュンエンの瞳を見据えてそう告げる。操縦桿を握りしめる手が、春燕チュンエンの小さな手を包み込む。こんな時だけは春燕チュンエンも受け身になるのだった。背中に手を回すと、春燕チュンエンは無言で顔を埋めてきた。  


 水路の音だけが、しばらく辺りを満たした。


 うるさいね、と、不意に春燕チュンエンが小さく笑う。顔を上げて私の胸をつつきながら。心臓が激しく脈打っていることに、その時初めて気づいた。時に積極的で、激しく温もりを求めてくる少女。腕の中の彼女は、それでもどこまでも無垢だった。籠の中の鳥のように扱ってはならないと戒めつつも、手放したくない癒しであることは事実だった。理性で自らを御そうとしたのは戦闘機パイロットとしての性だろう。


 馬幇マーバンの隊列に同行したいと、春燕チュンエンが言い出したのはその三日後のことだった。

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