第8話

「……そうなんだ」


 私は背中に嫌な汗をかき始めた。

 詩織の高校時代の元カレである佳正と私が結婚していることは、詩織は知らないはずだ。

 その追いかけてきた人が佳正だとしたら、これから詩織とずいぶん気まずくなりそうな気がする。しかし、その事実はいつか明かさなければいけない。


 私はコーヒーを一口飲んでから、覚悟を決めた。


「……あのさぁ、詩織……」


「どうしたの?」


「詩織が高校時代に付き合ってた、佳正、覚えてるよね?」


「ああ、佳正ね。もちろん覚えてるよ。忘れるはずない」


「……私の旦那は、佳正なの」


 詩織と目を合わせられない。

 思わず目を伏せてしまって、コーヒーに映った自分の顔と目が合う。眉が下がった、ひどくバツの悪い顔をしていた。


「うん」と平凡な返事をした詩織の声は、先ほどまでと調子が変わらない。

 私が恐る恐る顔を上げると、ニコっと微笑んだ。


「安心して、美咲。私は佳正のこと、好きでもなんでもないから」


「そうだったのね。私てっきり、詩織は佳正のことを追いかけてきたのかと思ってた。高校時代、うまくいってたみたいだし」


「そういえば」

 詩織は素早く話を切り替えた。

「高校のとき、美咲が私の恋愛相談に乗ってくれてたのよね。懐かしいわー」



 私たちの高校時代。

 三年生の佳正と一年生の詩織は、校内有数の美男美女カップルだった。


 佳正は野球部に所属していて、ショートで四番の中心選手。

 当時は佳正と全く接点のなかった私ですら、天野佳正の名前を聞けば顔が思う浮かぶくらいだったので、相当な有名人だった。佳正に告白する女子生徒は後を絶たず、一日一人以上のペースで告白されていたとか。


 そんな女子生徒たちの夢を打ち砕いたのが詩織だった。

 詩織は吹奏楽部に所属していて、野球部の試合があるときは吹奏楽部の一員として必ず応援に行っていたらしい。

 それがきっかけで二人の距離は縮まったようだ。


 当時無名の一年生だった詩織が全校生徒の中心人物である佳正と付き合ったことで、当時はかなり大きな話題になった。

 噂話をあまり好まない私の耳にも、詩織の噂は入ってきた。


 そのとき初めて、私は詩織のことを知ったのだ。


 他の女子たちは詩織のことを羨ましがったり、早く別れないかと期待したりしていたが、私は「どうせそんな子と私とでは、関わる機会なんてないのだから」と高を括って無関心を貫いていた。


 ところが、佳正たちの学年が高校を卒業し、私が二年生になったある日、詩織がいきなり私に恋愛相談を持ち掛けてきたのだ。


 当時の私は男子と付き合ったことすらなかったので、想像したことや本で読んだことをアドバイスとして詩織に話していた。詩織はそんな私の話を喜んで聞いてくれた。

 そして、そのアドバイスが功を奏したのかは分からないが、私たちが高校を卒業するときにも、まだ詩織と佳正は付き合っていたらしい。


 結果オーライとはいえ、恋愛経験皆無だった私の言葉を真に受けて聞いてくれた詩織を、なんだか少し気の毒に思っていた。



「私が『好きな人に会えない時間が寂しい』って相談したときの美咲の言葉、ずっと覚えてるわ」


「ああ、あの言葉、かな?」


 私は曖昧な感じを作って返事をした。思い出したら顔が熱くなってきた。

 詩織は「もしかして忘れちゃった?」と、少し切なげな表情を浮かべる。


「美咲はそのとき、『会っている時間だけが全てじゃないんだよ。会えないときでも、相手のことを想っている時間が大事なんじゃない?』って言ってくれたじゃない」


「うん。忘れるわけないよ」


 なぜなら、そのフレーズは、当時私が好きだった小説に出てきたものだからだ。それを自分が考えたことのように言ってしまったのが、少し心残りだった。

 もちろん適当に言ったわけではなく、感銘を受けたからこそ詩織に言ったのだが、詩織があまりにもありがたがるので、それが小説で見た言葉なのだと言い出せなかった。


「詩織が言ってくれたその言葉、私はすごく大切にしてるよ」


「そうなの?」


「私には、諦めきれない恋があるから。あの日の美咲の言葉を御守りにしてる。離れても想いは通じてるって、信じられるように」


 詩織はグラスに滴る水滴を指の背で拭った。


「でも、その人は結婚して、子供もいる。だからもう、私の恋は一生叶わないのかも」


 詩織は悲しげな表情で、まとまって大きくなるグラスの水滴を繰り返し拭う。


「そうなんだ……」


 詩織なら、どんな恋でも叶えられると思っていた。

 また昔のように詩織の恋愛相談に乗りたいと思う反面、詩織みたいな素敵な人の想いが届かない世の中の残酷さを思い知る。


「──あ、ごめん! こんな暗い話はやめよっ?」


 詩織は水で濡れた手をおしぼりで拭き、立てかけてあるメニュー表をテーブルに広げた。


「もうお昼も近いし、何かお腹にたまるもの食べない? パスタとかサンドウィッチとか、マスターに頼めば何でも作ってくれるから」


 時計を見ると、正午を過ぎていた。


「そうだね。じゃあ私は──」

 私がメニューを見ようとしたとき、テーブルに置いていたスマホがブルブルと震えた。

「ちょっとごめん、電話きた」


 私は席を立ち、急いで店の外に出た。

 電話してきたのは咲良だった。


「どうしたの、咲良?」


『……あのね、お母さん』

 咲良は震えた声で話しながらしゃくり上げる。

『今日ね、体調悪くなっちゃったの。だから、先生に言って、──っ、部活、早上がりしたの。ごめんなさい』


 咲良はいつも楽しそうに部活に参加していた。だからこそ、午後の部活を休んでしまうことに罪悪感を抱いてしまい、泣いてしまっているのだろう。


「すぐ迎えに行くから、帰る準備して、いつもの駐車場のところで待ってて」


『……うん。わかった』


 私は電話を切り、急いで店内に戻った。


「ごめん詩織、ちょっと今から咲良を迎えに行かなきゃいけなくなった」


 退屈そうにスマホを見ていた詩織は顔を上げる。


「どうしたの?」


「娘が体調を崩したみたいで、部活を早上がりしたみたい」


「それは大変」


「せっかく誘ってくれたのにごめん」


「いいのいいの。また今度、ゆっくり会おう」


 バッグから財布を出そうとする私の手を、詩織が制した。


「お金は私が払っておくから、早く行ってあげて」


「ありがとう。ほんとごめん!」


 私は足早に店を出て、学校に向かった。

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