第2話

 高校を卒業してから10年。


 私は結婚し、子を持つ母になった。

 藍川美咲が、天野美咲になったのだ。


 そして今日、夫の佳正は単身赴任で家を出て行く。


「ほら、咲良、パパにバイバイして」


 まだ八歳の咲良は、佳正と顔を合わせずにずっと下を向いている。


「咲良、いい子にしてるんだぞ」


 佳正が咲良の頭を撫でると、咲良はコクンと首を縦に振った。


「しばらく咲良の頭を撫でられないから、しっかり撫でておいた方がいいよ」


 佳正は遠くの地域に行ってしまう。

 片道何時間もかければ会いに行くことも可能だが、お互いの仕事の忙しさを考えれば現実的な距離ではない。

 ちなみに赴任の期限は決められておらず、そのまま赴任先で重要ポストに就く可能性もあるらしい。


「──それにしても、咲良はちっとも俺に懐かなかったな」


「だってあなた、いつも仕事で忙しくしてるから。──でも、咲良もいつか、佳正の大変さを分かるときが来るよ。咲良だって成長してるんだし」


「だといいけどな」


「咲良は私がしっかり面倒見るから、任せて。佳正は安心して仕事頑張ってね。できれば、早く帰って来てほしいな」


 佳正は、私の上目遣いを受け止めるように「ああ」と頷く。


「もし浮気なんかしたら許さないからね!」


 私が冗談めかして若々しい声で言うと、佳正は目をそらさずに「心配するな」と言った。


「佳正、昔からモテるから、言い寄られたりすると思う。そういうの、気を付けてね」


「俺の気持ちはずっと変わらないから、大丈夫だ」


「ありがとう、佳正……」


 私は佳正にキスをした。

 新婚のときは私からいってきますのキスを毎日していたが、最近はめっきりしなくなっていた。それでも、しばらく佳正に会えないと思うと、どうしても求めてしまう。

 佳正の首を抱く私の腕が重い。昨日の夜の筋肉痛が、まだ全身に残っている。

 唇を離すと、佳正は微笑んだ。


 これからしばらくは佳正に会えない。そう思うと寂しさがこみ上げてくるが、私のそばには咲良がいてくれる。それだけで、少しはなんとかなりそうな気がした。


 佳正は姿見でネクタイを確認する。「よし」と気合を入れてカバンを持つと、玄関の扉を開けた。


「仕事がんばって」

「ああ、行ってくる」

「いってらっしゃい」


 玄関のドアが閉まると、咲良は私の顔を見上げた。

「ねえねえ、パパは、どこにいったの?」

 私の裾をちょんと引っ張る。


「パパはね、ちょっと遠いところにお仕事に行っちゃったんだよ」


 しゃがんだ私の首に、咲良がしがみつく。

「これからは、ママとふたり? ママはどこにも行かない?」


 私は咲良をギュッと抱きしめた。


「ママはずっと咲良と一緒にいるから、大丈夫だよ。だから咲良はいい子にして、しばらく私と二人で暮らそうね」


 背中を撫でると、咲良は「うん。分かった」と応えた。


 私は小さな身体を抱きながら、何があっても咲良を守っていく覚悟を決めたのだった。

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