孤独
「アイネスフィールさん、陽力原理詳しいんでしょう?
良かったら教えてくれませんか?」
溌溂とした顔に期待の笑顔を浮かべた金髪の女子が、急に私に訊いてきた。
確か新入昇格生のレーネ・エリザベートさんだ。
「また」か。この2年はずっとパターンだ。多分この人も同じように......
いや、そんなことは問題じゃない。
心の中で首を振り、私は笑顔を作って応える。
「はい、勿論」
―――― ――――
「え、この式ってこう展開できるんですか?」
「はい、元はエイリークソンの定理なんですが、a0項に代入すると似た式になりまして、ここでこう......」
「うわっ、思いつかなかった、というか綺麗すぎるこの別解......」
陽力原理、学んでいてよかった。
彼女の顔が発見の喜びに輝くのは、勉強机に噛り付いた3時間に値して余りあると思う。誰もやりたがらない退屈な教科だけど、だからこそ私が一番役に立てる。
「アインさん、本当に天才じゃないですか?言ってみてくださいよ、ここまで予習するのにかかった時間」
「ええと......」
若干答えに詰まった。心の距離を測りかねる。
3時間、と答えてしまうと多分、その「天才」とやらに彼女の中ではなってしまって、距離を置かれてしまうかもしれない。
誇るわけじゃないけど、私の学習速度はそこそこ速い。ここまで予習するのに他の人は5,6時間、問題集で感覚を掴むまで合計20時間以上かけたと耳に挟んで、驚いたばかりなのだ。
思い出すふりを装って考える。距離を測りつつ、いざとなれば誤魔化しが効く解答は......
「2日くらいですね......」
嘘は言っていない。一日1時間30分だ。
「2日......でもアインさんよく
1日陽力論って何時間対策してます?」
「うぐっ......」
まずい。詰められた。
嘘は吐けない。
「1...時間30分...です」
「えっ、本当に天才じゃないですか!」
え?
彼女はあんぐりと開いた口に手を当てて私を見る。
いや、その反応は予想していなかった。苦笑いされるかと思っていたのだが。
「うわっ、ラッキー!
やっぱり居るところには居るんですね、天才って!
いいじゃないですかアインさん、本気で羨ましいですよそれ。
でもまた教えてください、その、陽力論で天才って、どんな見方してるかすっごく気になります!」
頬が熱くなるのを感じる。
認めよう。私は割と陰キャ、というかガリ勉だ。他の子みたいに交友関係と勉強を両立できているわけでもない。勉強しかないタイプの人間だ。
だからというかなんというか、レーネちゃんの純粋な瞳に抵抗は出来なかったし、人馴れしていな過ぎて、身を乗り出して私に顔を合わせる彼女に赤面してしまうのも、多分止めようがなかった。
「......うん、もし、レインさんが良ければ」
それに、抵抗する理由もないのだ。
「そうですね、じゃあ明日、図書館で教えてもらえませんか?
あそこ最近ちょっと気に入ってるんです」
「......私も!」
幼稚なことに、彼女の一言一句に心が跳ね回っていた。まるで妹が幼年学校に入る前の頃みたいだ。
この流れでこんなにフレンドリーになってくれる子なんて初めてだった。
彼女の知的好奇心溢れる貪欲な脳の糧にされても文句はない、というか、自分から糧になりに行きたかった。
「それじゃ連絡先交換しましょう!
あと、なんかこの喋り方なんですし、普通にため口で行きません、ほら、アインちゃんとか」
「うん、それじゃ、これ連絡先。えーと......レーネちゃん」
彼女は咲き誇るように笑う。
連絡先を交換して、ウキウキした調子で帰っていく彼女の後ろで耳が真赤になっているのがバレていなかったかヒヤヒヤして、まだ恥ずかしくてしゃがみ込んでしまった。
―――― ――――
何も挨拶することなく帰り着く。第三層のプラットフォーム上にある家の扉は左右に開いて、奥のリビングでカウチに凭れている影を見た瞬間、少し肩が強張るのを感じた。
一瞬フリーズした私に、振り返った妹は、何でもないように
「あ、姉様、帰ったの。じゃ、あれやっといて」
リビング横のダイニングに転がっていたゴミの片づけを言いつけた。
先に鞄を置きに階段に向かおうとすると、
「言ったの聞こえなかった?
あれ、片付けといてって。
クソの役にも立たないんだからそのくらいすぐにやれよ」
私はその場に鞄を置いて掃除道具を取りに行った。
見るだけで分かる。多分、私への嫌がらせだ。
床には意味もなく服が散らばっていて、お酒がこぼれたらしいエタノールの匂いもする。家具の配置はいろいろ変更されて、重いグランドピアノも退かされていた。
多分魔術でやったんだろう。魔術がまともに使えない私を嘲笑いたいのが透けて見えていた。
溜息をつきたかった。でも、妹が気に食わなくても、母が来るまでにはこの惨状は片づけておかなければならない。
今年二回目の流爆星で汗ばんだ服を替える暇もなく、無心でくらくらするくらい立ち上るエタノールの匂いを拭い取る。ここのところ完全に管理が私の担当になっている消臭スプレーとランドリーバスケットを持ってきて、手早く消臭、もう片手で服を拾って洗濯籠に入れていく。
大体10分程度かかった。結構度が強かったのか、中々お酒の匂いが取れなかったのだ。
まあでも、今回はそこそこましだった。そもそも妹が招くパーティが、私が帰ってくる時刻まで続いていたわけでもない。
しかし、バスケットをランドリードローンに預けようと持ち上げたとき、妹が追い打ちをかけてきた。
「あ、そうだ、言い忘れたけどトイレもやっといて」
嫌な予感しかしなかった。
多分私が着替えに行くとまた妹は怒るのだろう。肌も汗でべたついているから、隠れて服を替えるだけだと気持ち良くならない。
ドローンに渡してトイレに急ぐと、案の定、シンクが吐瀉物で塗れていた。しかもちょっとシンクから垂れている。
こみ上げる吐き気を押さえて洗剤とブラシを手に取り、床を磨いてからシンクに移る。
うげえ、詰まってる。
仕方ないので手を突っ込んで詰まりを取り、洗い流して残った臭気も洗剤ぶっぱで強引に片付けた。
手を執拗に洗って匂いを落とした頃には流爆星も終わりかけていた。久方ぶりの眩い空も消えて、傾いだ太陰のコロナは無彩色に戻り始めている。
漸く終わった、と思った。妹は残念そうに頤に手を当てて窓の向こうの太陰を眺めていたが、ため息を吐くと視線を外し、急にニヤニヤした顔で私の方を向くと、
「あ、そういえばもうママ帰ってくるって」
爆弾を投下した。不味い、直ぐに着替えなければ。
あの人は身だしなみにうるさいのだ、汗ばんだ制服、しかも洗剤が飛んで染みになっている。直ぐに着替えないと、母が爆発して......!
「あー、ざんねーん、帰ってきちゃったみたいね、ご苦労様」
無慈悲な宣告と同時にドアが開いた。
「エルネー、帰ったわよー!
いやー、遅くなっちゃって、流爆一緒に見れなくてごめんね。
でもちょっと中央で差し入れが......うん?」
固まった私に母が視線を向ける。
終わった。
「あんた、何してんの、制服のまま......?
エルネ、差し入れ食べてなさい。あなたの好きなティラミスだから。
私はこのバカをどうにかしてくるわ」
「わーっ、もしかしてこれパティスリー・ド・ベルフェゴーの新作!?
ありがとうママ!いただくね!」
私は迫ってくる母を前にして震えるしかなかった。
―――― ――――
「......ッ!」
シャトルが揺れて、手すりを掴んだ瞬間右腕に激痛が走った。昨日殴られたところだ。
痛む度に私をねめつける母の、汚物を見るような冷たい目が蘇ってきて、肩が震えるような感覚に襲われた。
学院では見せるわけには行かない。どうにか抑えなくてはならなかった。
出来る限り右腕を使わないよう、左肩に鞄をかけて歩いたが、階段で左脚に痛みが走って転びかけて、結局右腕を使う羽目になってしまった。じんじんするけど仕方ない。右肩に鞄をかけ、左脚を押さえながら階段を下り、できればHR教室に着くまでに痣が回復することを願った。
そして願いは通じたのかもしれない。叶えたのが太陰なら皮肉な話で、太陽が私を祝福することはないので、結局自然回復だろうという結論に落ち着く。
上位存在の意図が(そんなもの存在するかもわからないが)どうあれ、痣の痛みはどうにか収まって来ていた。これが夜のうちに発動してくれればよかったのだが、やはり身体の中の陰力エネルギーのコントロールは儘ならない。
着席し、HR教室である講義に備えていると、同じ講義を受けている女子たちのクラスタが視界に入った。
昨日話したレーネちゃんも居た。あっ、そういえばメッセージ返してなかった、昨日すぐに寝てしまったから......
SNSを開こうと端末を取り出すより早く、私と目が合った彼女が顔を伏せるのが見えてしまった。
ああ、そうか、やはりクラスの子が見逃すわけないのだ。
みなまで言うな、とでも言いたい気分だ。いつものパターン。私に近付く子は警告を受けて、結局疎遠になってしまうのだ。もし離れるのを拒否すれば、クラスメートの「善意ある手によって」強引に引き離される。
だと言うのに、彼女は、あろうことか近付いてきた。
止めて欲しい。あなたと仲良くなれると思っていた愚かな私に詰め寄らないで欲しい。来る言葉は分かってるんだ、その顔を見れば――――
「その、ごめんなさい、図書館には、行けなくて......」
何も言いたくなかった。口を開こうとしてもわななきそうで、声を出そうとしても音が外れそうで、何よりまた心が罅割れそうに感じて、でも、言わなきゃいけないと思うから。
「......私は、大丈夫。揚力論、頑張って」
これで彼女は自由だ。
「......うん。ありがとう、アイネスフィールさん」
彼女は女子クラスタに戻って行った。レーネさんを咎めるような視線が幾つか飛んでいたが、彼女の対応を見て消えて行った。
もう嫌だ。
―――― ――――
放課後になった。また家に戻れば妹が何か言いつけてくるだろう。家事システムにやらせればいい仕事を、わざわざコマンドで停止してまでやらせ始めるのだ。
私に、幼少の頃の恥の代価を払わせるために。
憂鬱だった。でも、私が従っていれば、少なくとも家は全てうまく行くのだ。それが、今私ができる最大の貢献の形で......
「あ、おーい、君、もしかしてアイネスフィールさん?」
こんな形で福音が降ってくるとは思わなかった。
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