第3話
3ヶ月後。いつものように、息子を保育園に送った帰り。
「ちょっとあんた! 真司さんをどこに隠したのよ!」
マンションのエントランスの前で私を怒鳴りつけたのは、朝比奈ほのかだった。前回会ったときよりかなりふっくらしており、お腹も大きくなっているようだ。ゴムのスカートを履いているが、それがお腹周りに食い込んでいる。
「あら、お久しぶりですね、朝比奈さん」
「お久しぶり、じゃないわよ! どういうことよ、あんた、真司さんとの離婚に応じたんでしょ!?」
「えぇ、離婚しましたよ。浮気して、相手との間に子どもを作った挙句、息子を自分の子じゃないと言い放った男なんて、こっちから願い下げです」
「なっ! ……それなら、なんで真司さんと連絡がとれないのよ! あんた、何かしたんでしょ!?」
「私が真司に何か? いいえ、何もしてません。彼とは離婚しただけです」
「嘘おっしゃい! そもそも、離婚したならなんでまだこのマンションに住んでるのよっ。ここは真司さんのお父様の持ち物よ! 離婚したあんたと血のつながらないあんたの子に、ここに住み続ける権利なんてないでしょう!」
「権利はありますよ。だってここ、私の父の持ち物ですし」
「は? 何言ってるの? ここは真司さんのお父様名義のマンションでしょ? 弁護士として有名な、緑川法律事務所の所長の」
「半分だけ合ってますね」
「え?」
怪訝な顔をする朝比奈ほのかに、私は説明してやった。
「確かにこのマンションの部屋の名義は緑川法律事務所の所長のものです。でも彼は真司の父親ではありません。法律上は赤の他人です。だって彼はもう、私と離婚しましたから」
「は?」
元は綺麗であろう顔を歪ませ、朝比奈ほのかは一瞬言葉を失った。私は彼女にもわかるように噛み砕いて説明してやった。
「何か勘違いしているようですが、緑川法律事務所の所長で弁護士でもある緑川宗介は、真司の父親ではありません。彼は私、緑川奈津子の父親です。だからこのマンションは私の父の名義で、私の結婚を期に、父が無償で貸してくれてるんです。贈与税のことなんかもあるから、名義は変えていませんけど、実質は私の持ち物ですよ。だから、真司と離婚しても出ていかなければならない理由はありません」
そう、彼女は緑川法律事務所の所長である私の父が、真司の実父だと思い込んでいたようだ。どうしてそんな勘違いをしたのか……考えるまでもない。真司がそう吹聴したのだろう。この見た目だけは綺麗な恋人をひっかけるために。
法律事務所の所長で有名な弁護士である緑川宗介は、真司にとっては義理の父親だった。私と離婚した今となっては赤の他人だ。出ていくのは当然真司の方。
その理屈が、目の前の頭の軽いお嬢さんにもようやくわかったのだろう。口をぱくぱくさせながら目を見開いていた。
「そんな……だってこのマンションはもともと彼の実家があった場所だって」
「それも半分しか合ってないですね。もともとは私の実家がありました。だけどこの辺りの再開発の計画が持ち上がって、父は土地をマンション業者に売りました。私が高校生のときの話です」
マンション建設に伴い、立ち退きを要求された住民は、優先的にマンションの一室を貰い受けることができた。けれど庭仕事好きな母がマンション暮らしを嫌がったため、都内にもう一軒所有していた別の家に引っ越した。この部屋はしばらく無人にしていたのだが、私の結婚を期に譲ってもらい、真司と2人で移り住んだのだ。
あったのは私の実家であって、真司の実家ではない。
「ちなみに真司の実家は千葉の房総半島にありますよ。都内の私立高校に合格したので、高校は親戚の家から通っていたって聞いています」
「そんな……じゃあ、彼の実家がお金持ちっていうのは……」
「お金持ちをどう定義するかはわかりませんが、ごく普通の家庭ではないですかね。真司のお父様は町役場にお勤めでしたし」
真司は美人だったという亡くなった父方の曽祖母似だったそうで、両親のどちらにも似ていなかった。人のいいご両親で、私の妊娠が発覚したときは私と私の両親の前で土下座されたほどだ。
ごく普通の両親の間に、見目麗しい男の子が生まれた。成績も地元の小中学校ではトップクラス。両親は彼に期待し、彼のわがままはなんでも許したらしい。地元を出て東京の高校に行きたいと言いだしたときも、親戚に頭を下げて下宿させてもらった。真司は勉強はそこそこできたので、そのまま有名私立大にも進み、弁護士を目指した。そして私と学生結婚したのだ。
当時烈火のごとく怒ったのは私の父である緑川宗介。けれど生まれてくる子どもに罪はないと、2人の結婚を認めてくれた。そのとき出された条件が、一人娘である私の家に婿養子に入って緑川を名乗ること。さらに真司を自分の法律事務所に就職させて、娘や孫が困らないよう、気も配ってくれた。そんな父をも、彼は裏切ったわけだ。
明かされる事実がショックなのか、顔を青ざめさせていた朝比奈ほのかだったが、すべての説明を聞いた後、何かに気がついたように顔をあげた。
「で、でも! おうちが資産家じゃなかったとしても、彼は弁護士だから稼ぎもいいわ! あなたと離婚したんだから、これで私とも結婚できるもの。私は弁護士の妻だし、お腹のこの子は弁護士の子どもよ! あなたみたいに親のスネをかじっているのとは違うのよ!」
「あーそれも半分しか合ってませんね」
「はぁ!?」
「私と離婚したので、あなたと籍を入れられるというのは本当です。もちろん、民法上離婚後すぐには無理ですが、男性の場合約3ヶ月後には入籍できます」
「なら私は3ヶ月後には弁護士の妻になれるわ!」
「なれませんね。だって彼、弁護士じゃありませんから」
「はあぁぁぁぁっ!?」
きんきんと響く声に顔を顰めつつ、私は懇切丁寧に説明してやった。
「彼の仕事は弁護士ではありません。パラリーガルです。あ、パラリーガルっていうのは法律事務所で働く事務員のことですね。弁護士を補佐する役目を担います」
「う、嘘よ! だって彼はロースクールの出身だって……」
「ロースクール出身ってだけでは弁護士になれませんよ。司法試験に受からなければ。真司はこれまで4回司法試験にトライしていますが、4年連続で落ちています」
「その……法廷の話もよくしていたのに……」
「パラリーガルが裁判に同席することもよくありますので」
「嘘でしょ……」
「本当です。ロースクール時代に最初の試験に落ちたとき、父が彼のことを拾ってやったんです。パラリーガルをしながら司法試験を目指すのは珍しいことではありませんし、身内の事務所なら時間の融通もきくから、勉強もしやすいだろうと、手を差し伸べてやったんです」
緑川法律事務所は本来、司法試験に落ちた人間を雇うような甘い事務所ではない。所属の弁護士は皆その道で一流の人間ばかりだ。そんな中、例外的に真司を入所させたのは、真司のため、というより娘・孫かわいさだろう。そんな恵まれた状況であったにもかかわらず、真司は試験に落ち続けた。3回目の試験に落ちたとき、実は父は彼のことを見放していた。私としてはこのままパラリーガルとしてやっていくのも悪くないのではと思っていた。私も仕事をしているし、一家3人食べていくには困らない。むしろ実家の援助のおかげで裕福に暮らせるくらいだ。
次々と明かされる事実に、朝比奈ほのかの顔面は蒼白だった。
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