深海に落ちる鯨
ろくろわ
魔法にかけられた話をしよう
記憶にもない女の為に、随分と遠くまで来たものだ。
既にその巨体は地に落ち、辛うじて息をしているだけの
翔鯨は鳴き声をあげること無く静かに伏せ、変わりに戦いを見ていた村人の歓喜の声が空気を揺らす。そんな村人を避け、族長の所に約束の報酬金を貰うため歩みを進めた。
「いやぁ流石、
厄介な害獣を駆除できたからだろうか、族長はえらく饒舌であった。
「その
「確かに、貴方様のお父様も随分とお強い剣士様でした。魔法一つ使わずに戦うお姿は鬼神そのものでした。貴方もお父様同様、魔法を使わず剣技のみで戦うお姿。大空を翔る鯨を落とす。墜鯨。その二つ名に相応しい戦い方でした」
「はっ、魔法を使わずに。ねぇ。私も親父も魔法の才がなく使えなかっただけなんだけどね。さぁそれより報酬を貰っていく。そこの翔鯨は好きにするといい」
まだ話している族長から金を奪い取るようにさらい、村を出た。
◇
親父は消えた妻を探すため、まだ幼かった私を連れ旅に出た。手がかりはただ一つの置き手紙。
『クジラの国で会いましょう』
だけだった。
親父の妻。私にとっては母に当たるのたが。幼い私には母の記憶など全く無い。だから私は全く知らない女の為に親父と世界を旅してきたのだ。
親父は北の国にクジラの巣とよばれる所があれば立ち寄り、南の国にクジラ族と呼ばれる部族がいれば尋ね、翔鯨の群れに出会えば片っ端から叩き落としていった。
旅の途中、親父はよく《女》の話をしていた。
彼女は透き通る蒼い目をしていた事。
彼女は黒い綺麗な髪をしていた事。
そして、
親父は他にも必要だからと剣の扱い方。食べられる野草や獣に対する知識等、生きる術を教えてくれた。そして翔鯨の事も。
翔鯨はその字の如く、大空を翔回り、災害を撒き散らす魔害獣。それを剣一つで
「親父、帰ったぞ」
「……あぁ。お帰り」
翔鯨を倒した村からそう離れていない森の中。ベッドがあるだけの小さな小屋を拠点にしてから、もう随分と経った。かつて墜鯨の二つ名を持っていた男も年には勝てず、ただ横になるばかりだ。
「親父、今回の噂もただの翔鯨が居ただけだったよ。クジラの国なんて誰も知らなかった」
「そう……か」
弱々しく答える親父は何もない天井を見ていた。
静かな暗い部屋に親父の不規則な息の
「……なぁ。お前に大事な……話がある」
いよいよか。私は黙って親父の傍による。
「俺はなそろそろ……クジラの国に向かうよ」
「なっ、どういう事だ?親父はクジラの国を知っているのか。それはどこにあるんだ!」
思わず大きな声が出た。長年探し求めていた答えを親父が話すのだ。無理もないだろう。
「クジラはな、死ぬとどうなると思う?」
「そりゃあ、地に落ちて腐る」
「そうだな。だが俺が言ってるクジラってのは魔害獣になる前、まだ海を泳ぐクジラの事だ」
この世の魔害獣と呼ばれるものは、もとは普通の生物だ。それが魔素に侵されることで魔害獣となる。だから翔鯨も元は海を泳ぐ普通の生物だ。
「クジラはな、海の中でその生涯を終えると、静かに海底に沈んでいくんだ。永い時をかけてゆっくりとな。そしてその間に他の生物に喰われその糧となる。何年もの間食べ続けられ、海の奥底に着くと、その骨すらも小さな生物の住みかになり栄養となる。そしてその小さな生物を他の生物が食べ、その他の生物をクジラが食べる」
「だからなんだって言うんだよ」
「命は連鎖している。そしてそれは、いたる海底で起きている。クジラの支配する海の中で。俺たちは海から生まれた生物を狩り、糧としている。クジラの国ってのはな、この世の全ての事なんだよ」
「……」
「誰かの何かは、次の誰かや何かに繋がっていくんだよ。いいか、俺はもう長くない。だから俺が死んだらこの身はそのままにしておいて欲しい。誰かが俺の服を取れば暖が得られる。獣が俺を喰えば、その獣を狩る誰かの糧になる。魔害獣が俺を喰えば、その魔害獣を狩る誰かの」
「親父の言いたいことはわかった」
親父はフフッと笑った。
あの手紙『クジラの国であいましょう』とは、結局この世から消えても傍に居る。そう言うメッセージだったのだ。だから死を前にした親父も、巡りめぐって私の傍に居る。そう言いたいのだろう。
「それとな、もう一つお前は母さんの事をずっと知らない女と言っていたがな、そんな事はないんだ。よく思い出してごらん」
弱々しく親父が指差す棚には小さな鏡がある。
覗き見るその鏡には、長く絹のような艶を持つ黒い髪。その目は燃えるような紅い親父とよく似た色のものと、透き通る蒼い目。
「お前はな、母さんが居なくなったことが受け入れられず、随分と落ち込んでいたんだ。だから母さんを探す旅をしたんだよ。母さんの思い出を話しながら」
唐突に誰かに抱かれた記憶が甦る。記憶の中に、私によく似た女が微笑んでいる。あぁ思い出した。私がこの女。母に似ているのだ。
一度堰を切った母との記憶は留まることを知らなかった。私の中に沢山の母が居る。私の髪も目も腕も足も。親父と半分、半分で貰ったもの。知らない女だと思っていた親父の話は、大切な母の話。自分で降れる身体は、母に撫でられているようだ。耳元に聞こえる私の名を呼ぶ優しい声。
まるでそこに居るかのように、母を感じることが出来る。
「だから言ったろ?母さんは時を超える魔法が使えるって」
涙を流す私を撫でながら、親父も涙を流していた。
親父のこの先はもう短い。私は手を握り、親父が無事クジラの国に行けるように沢山話をした。
◇
翔鯨はその巨体で大空を支配し、通り過ぎた後には何も残らない。魔害獣の中でも上位に入るランクだ。
かつて、その魔害獣を剣一つで倒し墜鯨と呼ばれた剣士が居た。墜鯨が倒し、落ちた翔鯨の肉は食料に。皮や骨は資材に。そしてそれを求めて人が集まり国になった。
『
長い黒髪に、透き通る蒼い目と燃えるような紅い目を持つ魔法にかけられた彼女は、いつしかそう呼ばれるようになっていた。
これはくじらの国を探し、くじらで国を作った一人の女剣士の物語。
了
深海に落ちる鯨 ろくろわ @sakiyomiroku
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