第2話
多摩川を隔てて東京都に隣接する神奈川県深見市は、平成初期から都心のベッドタウンとして発展してきた。駅周辺には商店街のアーケードが伸び、飲み屋街が軒を連ねている。駅から徒歩圏には中層階のマンションが建ち並び、緑地公園も整備されて県内でも住みやすい街として少子化のご時世にもかかわらず人口は毎年微増している。
駅から徒歩十五分の立地にあるロイヤルステージ深見は五階建て、築十八年のマンションだ。二年前に外壁塗装をやりかえて見違えるほど綺麗になった。
和奏は母の真理子とロイヤルステージ深見の203号室に移り住んでひと月になる。これまでの狭いボロアパート暮らしと比べると、リフォームされたばかりの広いマンションは居心地が良いはずだった。
しかしここ最近、昨夜のような不可解な現象に悩まされるようになり、新生活に暗い影を落としている。思い切って母に相談したところで、気のせいだと笑い飛ばされた。マンションは集合住宅だから壁の裏を通る配管か何かが音を立てているのだろう、と相手にされなかった。
隣人の騒音ではなく、配管の音だと母が言ったのは隣室が空き部屋だからだ。駅近の新築マンションが増えたことで初期から入居していた家族が引っ越していったと聞いている。ロイヤルステージ深見は空き部屋問題を解消するために破格で売りに出されていた。
母がこのマンションを一大決心で購入したことは和奏も知っている。友達も呼べないボロアパートからここへ越してきたときには嬉しくて仕方が無かった。だから些末なことでことを荒立てたくはない。実際、夜中の不気味な音以外は部屋も広くきれいで文句はない。
枕元に置いたスマートフォンのアラームが鳴る。眠い目を擦りながらカーテンを開けると、眩しい朝陽が差し込む。南向きの陽当たりの良い部屋だ。目の前を遮る建物がないので近隣の住宅街や公園を見渡すことができる。
和奏はトーストと作り置きのサラダ、牛乳をたっぷり入れたインスタントコーヒーで朝食を済ませ、制服に着替えた。今夜は夜勤明けの母が帰ってくる。あの音がしても母がいれば心強い。部屋の鍵をかけたことを確認して階段を降りる。エレベーターもあるが築年数が古いために速度が遅く、朝は通勤、通学で混み合う。部屋は二階なので階段を使う方が早い。
「はよっす」
眠そうな顔で階段を上がってくる
「おはようございます」
和奏は気後れしながら会釈する。軽薄を絵に描いたような男だが、すれ違うたびに挨拶を欠かさない。その点は感心していた。
階段を降りて建物を回り込み、ロビーへ向かう。敷地を囲む銀杏は見事に色づき燃えるような金色が青空に映える。銀杏の葉が黄金色の絨毯のようにアスファルトを覆っている。
「おはよう」
落ち葉を竹箒で掃いているのは
「そろそろ
遠藤は銀杏の木を見上げる。毎年、踏まれる前に集めておいて欲しい人に分けたり、料理に使うのだと話してくれた。二年前に奧さんをがんで亡くしており、こうした地域との関わりを大事にしているようだ。
和奏は自動ドアを抜けて一階ロビーへやってきた。一階はロビー、管理人室とレンタルオフィスになっており、入居者は二階以上にしかいない。レンタルオフィスもほとんど無人で、住所の登録だけに使われている状況だ。管理人も以前は常駐していたが、最近は不在にしていることが多い。
エレベーターの扉が開き、同じ深見第一高校に通う同級生の新井妃那が手を振る。妃那は502号室に両親と中学二年生の弟と住んでいる。一緒に通学しよう、と誘ってくれたのは妃那だった。マンションには同級生がいないらしく、和奏が引っ越してきたことが嬉しいようだ。
「昨日はありがと、違うところを暗記するところだった」
「うん、いいよ。私も忘れてたから」
昨日のLINEで和奏も救われた。ロビーを出てブランコと鉄棒しかない狭い公園の脇を通り、駅へ向かう。深見駅までは早歩きで十二分だ。コンビニ前で信号待ちをしていると、後ろからスーツ姿の男性が軽やかに走ってきた。
「妃那、忘れ物だよ」
「やだパパ、ありがとう」
妃那の父親の新井昌幸だ。手にしたピンク色の水筒を妃那に手渡した。品の良いスーツを隙無く着こなし、ソフトツーブロックで整えた髪型。四十代半ばというが、清潔感がある雰囲気は好感度が高い。彼はいつもこの先のバス停からバスに乗って出社する。エリート然とした雰囲気に父親のいない和奏は気後れしてしまう。
「妃那のお父さん、優しいね」
「そうかな、私、忘れ物が多いから」
妃那はウインクをしながらペロリと舌を出してみせる。
整えた眉のラインで切りそろえた前髪に背中まで伸びた毛先はゆるいパーマを当てている。メイクもばっちりで、いつも妃那が和奏を待たせるのはエレベーターのせいだけではない。メイクが決まらないと部屋を出てこないのだ。妃那はいつも華やかな雰囲気を纏い、学校でも男女ともに友達が多い。
「どしたの和奏、浮かない顔して」
和奏の暗い表情を妃那が小首を傾げて覗き込む。
「ああ、うん。昨日夜もあの音がして」
「とんとんって壁を叩く音」
和奏は固い表情で頷く。
「あのマンション、綺麗そうに見えて18年だっけ、結構古いからね。やだ、私たちとほぼ同い年じゃん」
妃那は自分の言ったことがおかしくなって和奏の腕をさすりながら笑う。
「ごめんごめん、本気で悩んでるんだよね」
妃那は真顔になって和奏に向き直る。
「深見北駅の近くに当たる占い師がいるって知ってる? 今日の帰りに行ってみようよ。オカルトっぽいことも相談できるかもよ」
「占い師って、そんな話も聞いてくれるの」
和奏が訝しげな顔で妃那を見据える。妃那は自分のアイデアにすっかり乗り気になっているようで、占い師のサイトを調べ始めた。
「ね、今日も空いてる。行ってみよう。平日だから暇してるかも」
妃那はサイトアドレスをLINEで送ってきた。電車が到着し、乗客が押し合いながら乗り込んでいく。満員電車に揺られながら、和奏はその場で断らなかったことを後悔し始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます