紗和が教える作家の心得
星咲 紗和(ほしざき さわ)
本編
その日、私は小さな書斎喫茶のカウンター席に腰掛けていた。店内には控えめなジャズが流れ、鼻をくすぐる深煎りコーヒーの香りが漂う。棚には文学全集や詩集、エッセイ、絵本までが詰め込まれ、窓際にはつややかな木製のテーブルとアンティーク調の椅子。そこに、この店の常連でもあり、何冊もの小説を世に送り出してきた作家・紗和(さわ)がいる。私は、ひとつの覚悟をもって彼女の前に座った。書くことに行き詰まり、どうにも視界が霞むような日々を送っていた私は、紗和に「作家としての心得」を直接聞いてみたいと思ったのだ。
紅茶が運ばれ、スプーンが軽やかな音をたてる。紗和は背筋を伸ばしながら、「まず、あなたは何のために書いているの?」と静かに尋ねた。その問いに私は息を呑む。明確な答えがすぐには浮かばない。このところ、読者がどう受け取るかばかりを考え、インターネット上での評価やコメント、ランキングに心を動かされている自分に気づいていたからだ。紗和は私の表情を見抜いたように微笑む。「読者はもちろん大事。でも、最初に満たすべきは、あなた自身の中にある『書く衝動』や『伝えたい世界』なのよ。」そう言われて、私は少し肩の力が抜けた。
続けて紗和は、筆記用具とメモ帳を取り出し、いくつかのキーワードを書き留めながら話し始める。「作家の心得はいろいろあるけれど、大事な点は大きく分けて四つくらいかしら。ひとつは、自分が本当に面白いと思えるものを書くこと。ふたつめは、言葉の土壌を豊かにするために、多面的なインプットを絶やさないこと。みっつめは、継続的な執筆習慣と推敲のプロセスを自分の中に確立すること。最後によっつめは、読者の存在を意識しつつも、自分の核となる声を見失わないこと。この四つが絡み合って、あなたにしか紡げない物語が形を成していくんだと思うの。」
窓の外には、木漏れ日が揺らめき、小鳥が細い枝で揺れている。紗和はその景色をちらりと目に収めてから、もっと具体的な話をするように促す。私は、各要素をもう少し詳しく知りたいと伝えた。
「まずは自分が楽しいと思うものを書くという点ね。」紗和は少し茶目っ気のある笑顔で言う。「書くという行為は、最初は孤独なものだけれど、それでもあなた自身がその時間を愛せるかどうかで、出来上がった作品は大きく変わるわ。誰かが求めるテーマを無理やり追いかけても、書き手が面白いと思えていなければ文章は死んだようになる。逆に、あなた自身が『これはたまらなく面白い』『この世界を描かずにはいられない』と燃えるような意欲を感じるなら、その熱は自然と文章にも反映されて、読者を惹きつける。創作の原点はそこにあるの。」
続いて紗和は、インプットの大切さを語る。「あなたは普段、どんな本を読むの?」と問いかけられ、私は最近は自分が書きたいジャンルの文芸書や参考になると考えた評論集ばかりを手にしていたことに気づく。すると紗和は、満足げに微笑む。「それも良いわ。でもね、同じジャンルや似た作風ばかりに触れていると、発想が偏りやすくなるの。時には全く別の領域に飛び込んで、刺激を受けることが必要よ。たとえばミステリー作家だって現代詩から新鮮な比喩を得られるかもしれないし、絵画展で見た色彩から、物語に新しい空気が吹き込むこともある。音楽や映画、日常会話や路地裏の看板、一見関係ないものからも、人間の感情や空気感が学べるの。創作を豊かにするためには、自分の中に多彩な素材を蓄え、いつでもそれを引き出せる状態にしておくことが大事なの。」
彼女はまた、「継続的な執筆習慣」と「推敲」の話題に移る。ここで紗和の目つきは少し厳しくなる。「才能はあっても、書かない作家は作家じゃないのよ。どんなに忙しくても、一日数分でもいいから書く習慣を続けること。運動選手が毎日トレーニングするのと同じ。言葉は使わなければ鈍っていくから。特にプロの作家を目指すなら、締め切りや編集者の要求、読者の期待も出てくる。その中でブレずに筆を進めるためには、日常的な執筆が癖になっていると強いわ。書く筋肉をつけるイメージね。」
「そして推敲よ。」紗和は筆を握る手を軽く動かし、メモ用紙の上でペン先を宙に踊らせる。「最初に書いたものが完璧であることはまずないわ。原稿は生まれたばかりの原石で、磨かれていないダイヤモンドのようなもの。時間を置いて見直せば、冗長な表現や不必要な場面、登場人物の不自然な言動などが浮き上がってくる。それらを削り、整え、光らせていくのが推敲の仕事。そこで気づくことも多いの。自分が本当に言いたかったことが、最初はぼんやりしていたけど推敲で透き通るようになる、そんな体験を何度もしてきたわ。」
最後に紗和は、読者との距離感について語った。「読者を無視することはできないし、するべきでもない。作品は読まれてこそ生きるし、読者からの反応は刺激にもなる。ただ、それに振り回されて『読者が喜びそうなこと』だけを追いかけると、自分の声を失ってしまう。大事なのはバランスね。あなたにとって本質的なテーマや価値観、それを素直に表現する勇気を忘れないで。批判を受けたら、それを学びの機会にすればいい。でも、すべてを受け入れて自分の根っこを見失うことだけは避けて。作家は木のようなもの。どんな嵐が吹いても、根をしっかり張っている木は倒れない。自分を見失わなければ、創作は続いていくわ。」
私が返事をしようとしたとき、紗和は「まあ、難しく考えずに。結局は『あなたが書きたいものを、書きたいように書く』ことから始まるのよ」と柔らかい声音で言った。その視線は窓の外の柔らかな光を映しつつ、同時に私の内面を見抜いているかのようだった。「書くことは試行錯誤の連続で、迷いは尽きない。それでも書いていれば、少しずつでも道は見えてくる。その過程こそ、作家として生きる醍醐味かもしれないわ。」
私は湯気の立つカップに口をつけ、ゆっくりと息を吐く。コーヒーの苦味と香ばしさが舌先に残り、今この瞬間が、私が作家として新たな一歩を踏み出す出発点になる気がした。紗和がくれた言葉は、具体的なテクニック以上に「書くことへの姿勢」を私の心に刻み込んだように思う。自分が書くことの意味を問い直し、自分の中にわき立つ衝動を信じ、日々の言葉を絶やさず、書いたものを磨き続ける。その先で、読者と真正面から対峙しながらもブレずに立つ作家としての自分が、少しずつ輪郭を帯びてくるのだろう。
店を出ると、先ほどまで曇りがちだった空が、うっすらと光を射し込ませていた。私はポケットにしまった小さなメモ帳をそっと握りしめる。そこには紗和がメモしてくれた、四つの指針が記されている。誰かから押しつけられた規則ではなく、自分を支え、導いてくれる羅針盤となる言葉。その指針とともに、私はまた書き始めようと思った。自分だけの声を、世界に届けるために。
紗和が教える作家の心得 星咲 紗和(ほしざき さわ) @bosanezaki92
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