3-2
長袖では蒸し暑く感じる日が、最近は増えてきた。大学の食堂で流れていたテレビのニュースで梅雨入りを報じていたけれど、雨の降っていない今日は暑いくらいだ。
薄手のシャツの袖を片方ずつ捲りながら、商店街を進む。土曜日だからか、火曜日の朝よりは人の通りがある感じがした。とは言っても、盛況とは程遠い様子であるのだが。
「こんにちは」
いつもと違う時間帯に少し緊張しながら、自転車を止めてつぼみの戸を引く。スタッフ会議の開始時間の十五分前。玄関にはまだ一足しか靴がない。おまけに女性のものだ。
早く着きすぎただろうか。悩んだが、引き返すわけにもいかず、諦めて框で靴を脱ぐ。いつもの癖でスタッフルームのドアを開けたところで、日和は瞳を瞬かせた。
「あら、こんにちは。早いのね」
部屋の中にいた女性が、にこりとほほえむ。三十代以上とは思われるが、年齢不詳の、どこか少女めいた雰囲気の美人。
「日和くんでよかったかしら。会うのははじめてよね。代表の朝森優海です」
「あ、……どうも。日和智咲です」
よろしくね、と笑みを深くした彼女に、日和も慌てて頭を下げた。女性ものの靴しかない時点でわかっていたことなのに、なぜか真木がいる気がしていたらしい。
――習慣って、すごいな。
思い込みと評したほうが正確かもしれないが、それはさておいて。真木をはじめて見たときも思ったが、それとはまたべつの意味で、民間のフリースクールの代表らしくない人だ。どこぞのお嬢様と言われたほうがよほどしっくりとくる。
「基生だったら、ちょっとお使い中なの。ごめんなさいね、私しかいなくて」
「いえ、あの、……大丈夫です」
とりあえずとばかりに応じた日和だったが、はっとして「あの」と呼びかける。
「なにかお手伝いしましょうか」
「ありがとう。噂どおり熱心なのね。でも、大丈夫よ。資料はできてるから」
「じゃあ、机の上でも綺麗にしておきます。広い和室を使うんですよね」
スタッフルームにふたりきりという状況が落ち着かず、言うなり日和は踵を返した。
真木の上司である。読まれている気はしたが、「ありがとう」と優海はあっさりと笑っただけだった。その反応にほっとしつつ、勉強会で使う机を運んで和室の机とくっつける。昼食時と同じスタイルだ。スタッフ全員が来るとも思えないが、狭いよりはいいだろう。
ついでにと濡らした布巾で机を拭いていると、玄関から音がした。
「優海さん。ピーチティーもうなかったからアップルティーでいい? というか、それしか買ってきてないけど。……あ、日和くん、もう来てたんだ。あいかわらず早いね」
「はぁ、つい、いつもの癖で」
そうして、なぜか、予想外の衝撃を受けたのだけれど。へにゃりと眉を下げると、近づいてきた真木が、手にしていたビニル袋の中身を見えるように広げた。
「どれがいい? 一番に選んでいいよ。優海さんの金だけど」
「あ……ありがとう、ございます」
スタッフルームへも届くように声を張ると、「いいのよー」とにこやかな声が返ってくる。お使いとはこれのことだったらしい。
ペットボトルに紙パック飲料、缶珈琲とバラエティ豊かなラインナップだ。
「ジュースあるよ。りんごとか。あと……なんだ。オレンジ?」
「俺、カフェイン飲めますからね?」
「誰も子どもみたいでかわいいなんて思ってないって」
「思ってるじゃないですか!」
カフェオレに伸ばしかけていた手を、無糖の珈琲に変更する。
笑われる要素が増えただけの気もするが、いや、でも、飲めなくはないのだ、本当に。強いて言うなら、甘党というだけであって。
「こんにちはー、あれ。もしかして、ぴよちゃん?」
「あ、はい。えぇと」
元気よく現れた初対面の相手に愛称で呼ばれて、珈琲を握りしめたまま固まる。
和室に入ってきたのは、生足が眩しいショートパンツスタイルの女性だった。明るいオレンジ色の髪をひとまとめにして、手で扇いでいる。
「あ。水曜日に入ってる
暑いのか額にはうっすらと汗がにじんでいた。健康的な笑顔は文句なしに友好的なのだが、気おくれした日和は、視線をふいと隣に動かした。
「時岡さん。時岡愛実さんっていうの」
苦笑気味な真木の表情に、助けを求めたようになっていたと気づいたものの、後の祭りというやつである。
「日和くんのひとつ下かな。今、大学二年だっけ」
「そうでーす。というか、真木さん、なんで苗字も言うんですかぁ。イケメンに名前で呼んでもらおうと思ったのに」
「その魂胆が見え見えで、日和くんが困ってたからだろうが」
「ちっ。雪ちゃんが言ってたのは本当だな。真木さんがぴよちゃんにはやたら甘いっていう」
「語弊のある言い方をするな、語弊のある」
「語弊って、真木さんがあたしにそんなに優しくしてくれたこと、ありましたっけ?」
「最初のころは優しかったと思うぞ」
「最初って。そうだったかなぁ。――あ、あたし。大学に入ってすぐのころからお世話になってるんで、スタッフ歴二年目なんです。というわけで、塩見さんのことも知ってるんですよ」
テンポよく進む会話に入り込めない日和を気遣ったのか、愛実がにこりとほほえんだ。曖昧に頷いた日和にもう一度笑いかけて、ビニル袋を覗き込む。
「あ、真木さん。それ、あたしも選んでいいんですか? 優海さん?」
「そう、そう。優海さん。好きなの選びな。早いもの順」
「やった。うーん、どうしようかな。……あ、ぴよちゃんは珈琲なんだ? 話に聞いてたより大人じゃないですか」
「って、どんな話をいったい……」
「ふふふ。内緒です。じゃあ、あたしはオレンジにしよっかな」
「日和くん、甘いのがよかったら変えてもいいよ」
「大丈夫ですから!」
半ば意地のように宣言してプルタブを引く。そのあいだに何人か到着したようで、窓の外からかすかな話し声が聞こえた。時刻は一時ちょうどを示している。
一口飲んだブラックは、やはり少し喉に苦かった。
好きになれない 木原あざみ @azm_kino
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