2-2

 車輪の回る音が、今日ものどかだ。自転車を押しながらアーケード商店街を歩いた回数は、いつのまにか両手では数えることができないほどになっている。

 商店街は寂れたままで変わりないが、つぼみは行くたびになにかしらの発見があって、だから、いつも新鮮だ。

 今日は誰が来るのかなぁと生徒たちの顔を思い浮かべていると、自分を呼ぶ高い声がした。


「ぴよちゃーん」


 足を止めて振り返る。凛音の声だ。小走りに近寄ってくる予想どおりの笑顔に、日和も笑顔を返して小さく手を振った。


「おはよう。凛音ちゃん。早いんだね、今日は」


 つぼみは十時からだが、その時間どおりに生徒全員がやってくるわけではない。午前中の勉強会に参加するのなら、十時半までには来る。お昼ごはんを食べるのなら、十一時半までに来る。つぼみに存在しているのは、そんな緩やかな縛りだけだ。

 現時刻、九時四十分。十時を少し過ぎたころに顔を出すことが多い凛音からすれば、早い時間である。日和の問いに、隣に並んだ凛音が笑う。


「というか、ぴよちゃんが早いんだよ。べつに十時きっかりでいいんだよ? ぴよちゃんだって」

「いや、まぁ、暇だし」


 凛音の言うことは正論なので口調が鈍る。似合わないことをしている自覚はあるが、早めに着く習慣がついてしまったのだ。


「ほかのスタッフの人は、みんなそうだよ。ちなみにね、今日はお兄ちゃん置いてきちゃった」

「そういえば、いないね。どうしたの。紺くんは」

「ちょっと調子が悪いみたい」

「……そっか」

「でも、大丈夫。そのうち戻るよ。お兄ちゃんは今年が転換期だから、気が重いんだって」

「そっか」

「大変だね。受験って」


 凛音の兄である紺は、中学三年生だ。出席できなくともどうにか進級できた期間は、まもなく終わりを迎える。その先に進むのなら受験をしなければならないし、どのような形態の高校を選ぶのかも考えなくてはならない。

 想像することしかできないが、大きなストレスだろう。


「そうだね」


 日和の口から出たのは、単純な相槌だけだった。話題を変えるように「そういえばね」と凛音が言葉を継ぐ。


「まきちゃんが褒めてたよ」

「え? 真木さんが? 凛音ちゃんを?」

「なんでそうなるの。ぴよちゃんを、に決まってるじゃない。なにも言ってないのに、早く来て掃除までしてくれるから助かるって」

「そ、っか」

「うん」


 知らないところでそう評してもらえていた事実に、こそばゆくなる。


「あいつは貧乏くじを引くタイプだなとも言ってたけど。おかげで最近、まきちゃんへのあきの襲撃が減ったんだって。代わりにぴよちゃんに増えたでしょ」

「それって褒めてたの?」


 むしろ悪口の類だったのでは。ネガティブに考え出した日和に、凛音が大仰に首を振った。


「褒めてる、褒めてる。まきちゃんの口調が雑になってるのは、懐に入れた証拠だよ。だって、まきちゃん。塩見さんには……」

「ん?」

「なんでもなーい。また、まきちゃんに怒られるところだった。人のいないところで人を比べるなって」

「真木さんは良い先生だね」

「先生って感じじゃないけどね。だからって、お兄ちゃんって感じでもないけど」


 日和の発言に、悩むように眉根を寄せていた凛音が、得心したように頷く。アーケードの屋根越しに、鳥のさえずりが聞こえていた。


「まきちゃんはまきちゃんだもん。それに、優海さんは優海さんだし、ぴよちゃんはぴよちゃんだし、それだけ」

「……それだけ」

「うん。それだけだよ」


 さも当然と言い切って、凛音ががらりとつぼみの戸を引く。


「おはよう」


 必要以上に元気な声だった気もしたが、指摘すべきかどうかはわからなかった。


 ――でも、まぁ、大丈夫か。


「おはよう、凛音。日和くんと一緒になったのか?」

「うん、商店街に入ったあたりで。ぴよちゃんが見えたから追いかけたの」


 スタッフルームから暁斗と出てきた真木を視認した凛音の声が、すっと落ち着いたものに変わる。ほら、やっぱり。誰にともなく日和は内心で呟いた。真木がいれば大丈夫だと漠然と思ってしまうのは、自分だけではないのだろう。その証拠に、凛音の指先は彼の服を掴んでいた。


「今日ね、お兄ちゃん休むって」

「そうか」

「明日は来るかな」

「明日になってみないとわかんねぇな、それは」


 そのままスタッフルームに向かったふたりにぺこりと頭を下げて、暁斗を伴って和室へと移動する。真木の台詞は、額面どおりに受け取ると突き放しているように響くが、そうではない。

 そのことを日和はわかっているし、凛音もわかっている。そういう人なのだと思う。それなのにと思いそうになったところで、暁斗が話しかけてきた。


「紺、休み?」


 脳裏を過りかけた塩見の声を封印して、暁斗に視線を合わせる。

 べつに、本当であれ、嘘であれ、どうでもいいことだ。それに、本人からなにを聞いたわけでもないのだし。そもそもとして、仕事をする上で聞く必要のあることでもない。


「みたいだよ。凛音ちゃんが言ってた」

「ふぅん。つまんねぇ」


 なんとなくではあるのだが、暁斗の口の悪さは、真木の影響ではないかと思うことがある。


「次に来たときに言ってあげたら、喜ぶんじゃない? 寂しかったって」

「寂しかったなんて言ってねぇし。つまんねぇって言ったんだよ」


 唇を尖らせて主張する横顔は、小さくても男の子だ。ほほえましく見つめていると、真木と凛音がやってきた。その姿にほっとする。いつものつぼみだ。

 あとは簡単に掃除機だけでもかけてしまおうかと目論んでいると、「日和くん」と真木に呼び止められた。


「昨日から、新しい女の子がひとり来てるんだよ。香穂子ちゃんっていうんだけど。恵麻とか雪と同い年の」

「はい」

「たぶん、今日もお昼から来てくれるから。よろしく」


 って、業務連絡それだけかよ。という突っ込みは呑み込んだのだが、呆れ顔の凛音が日和の胸の内を代弁してくれた。


「まきちゃーん、ぴよちゃんが雑すぎるって顔で固まってるよ」

「日和くんなら、それだけでも問題ないだろ」

「え……、と。はい」

「ほら見ろ。問題ない」


 なにも疑っていませんという瞳に圧されて頷いてしまっただけです、とはもう言い出せない雰囲気である。大人げなく返された凛音は頬を膨らませていたが、水を向けられると、任せてとばかりに香穂子の説明を買って出た。

 操縦がうまいと評すると語弊がある気はするけれど、ごく自然に彼女から見た新しい生徒の印象を言葉にさせようとするあたり、扱いがうまいなぁと思う。

 日和に伝わりやすいように言葉を選びながら、凛音は一生懸命だ。


「――でね、昨日は、のんちゃんと香穂子ちゃんと三人でいろいろ話したんだよ。恵麻ちゃんとはまた違うお洒落さんで、たぶん、ぴよちゃんも見たらびっくりするんじゃないかな」

「びっくり?」

「かわいいの。テレビとか雑誌で見る女子中学生って感じで」


 そう言われてはじめて、日和は凛音たちの制服姿を見たことがないことに気がついた。彼女たちは、いつも思い思いの服装でつぼみに現れる。

 それぞれの個性が出ていてかわいいけれど、長期間フリースクールに通っている凛音たちと、その子の雰囲気が違っていてもしかたがないのかもしれない。


 ――でも、なぁ。そんなこと言うのも、なんか。


 不用意なことを口にできず逡巡していると、暁斗の相手をしていた真木が振り向いた。


「どうした? 凛音もお洒落したくなったのか」

「なんか、まきちゃん。その言い方、おじさんみたいだよ」

「凛音からしたら似たようなもんだろ」

「さすがにまだお兄さんだよ。ぴよちゃんと同じくらいでしょ? でも、……うーん、そうだな。あたしには似合わないよ」


 漂った卑下に、あ、と日和が思う間もなく、真木はさらりと言ってみせる。


「今のままでも十分かわいいよ。でも、興味があったら聞いてみな。香穂子ちゃんでも、恵麻でも、雪でも。喜んで教えてくれるから」

「……うん」

「ま、喜びすぎて大変かもしれないけどな。それもまた楽しいだろ。みんなかわいくて大変になるな、なぁ、あき」

「えぇ!?」

「ちょっと、なによ。あき。その態度」


 お互いの照れ隠しから発生した姉弟喧嘩のようなじゃれ合いを見つめる真木の横顔は、文句なしに優しい。先生、スタッフを通り越して、家族のように。


「おはよう!」


 玄関から響いた新たな声に返事をして、鞄をスタッフルームに置くべく日和は立ち上がった。勉強会を始める前に、机の上くらいは拭いておこうと算段しながら。

 綺麗好きというわけではないし、つぼみが目に余るほど汚れているわけでもない。ただ、自分ができるなにかをしたいと、ふと思ってしまったのだ。


 ――こんなの、絶対、俺らしくないんだけどなぁ。


 塩見が知れば、それこそまた大笑いをすることだろう。その予想を頭から振り払って、日和は洗面所に向かった。


「日和くん、それ」


 和室から出てきた真木とばたりと対面した瞬間に、「それ」と言われて首を傾げる。


「いつもありがとう」


 その言葉に、掃除のことだと照れくさくなった。布巾を握る手に、きゅっと力が入る。


「あ……いえ」

「気にかけてくれて、うれしい」


 それだけ言って、真木が横を通り過ぎていく。その背中を呆けたまま見送っていたことに気がついて、日和は小さく息を吐いた。


 ……なんか、嫌だな。


 嫌だな、というか、あれだな。この言葉がほしくてしていたわけではないはずなのに、なんだかひどくむず痒い。

 真木は、暁斗が日和にすぐに懐いた理由がわかると言っていたが、ここに通う子どもたちが真木を慕う理由が日和にはよくわかる。

 初日に恵麻が言っていたとおりだ。この人には嘘がない。真実かどうかはわからないけれど、子どもたちの目にも、日和の目にも、そう映っているのだ。とてもすごいことだと改めて思う。子どもは、本能で人の善悪をかぎわける。子どもにとって、身近な大人は世界だ。

 小学校に入学して、一年目。担任の教師の力量が、人格形成に大きく影響するとされることと同じこと。良い先生にあたれば、クラスの空気は明るく、子どもも健やかに成長する。けれど、そうでない場合、学校嫌いや勉強嫌いに陥ることもあるのだ。

 教師とて人間である。悲しいかな、人間性に問題があったり、依怙贔屓をしたり、意地悪をしたり。そんな人も一定数存在してしまうのだ。

 珍しく学校教育に思いを馳せたせいか、そういえばと自身の幼かったころを思い出す。

 小学校の六年間、教師で嫌な思いをしたことはなかったが、中学校に入って自分は壁に当たった。担任だった体育会系の男性教諭は、内向的な日和が気に入らなかったらしく、ねちねちと、今になって思えば、親に言えばよかったと思うような陰湿な真似をされたのだ。

 教師なんて、完璧じゃない。夢を見るような世界じゃない。いくらがんばったって、認めてもらえるとは限らない。その経験は、日和の自尊心を奪ったし、夢を遠のかせた。考え方をより卑屈にもさせた気がする。

 世の中がすべて、つぼみのようであれば平和なのに。

 夢のようなことを考えてしまった自分に、少しだけ日和は苦笑した。世界からいじめがなくなることはないし、すべての人間が等しく受け入れられる場所もない。そういうものなのだ。

 襖一枚向こうの和室からは、楽しそうな話し声が響いている。その内容を聞くともなしに聞いていた日和は、でも、と思い直した。

 そんな世界があるはずはないけれど、だからこそ、彼らを受け入れる場所として、「ここ」があるのかもしれない。

 あの人が、そう言っていたように。

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