2-1
「はい。はい、よろしくお願いいたします。お忙しいところお時間いただきまして、ありがとうございました」
通話終了のボタンをタップして、日和は深々と息を吐いた。スマートフォンに触れる指先がかすかに湿っている。
……緊張、した。
だがしかし、教師になるためには避けて通れない道なのだ。最初の難関を突破した思いで、スマートフォンをジーンズの尻ポケットにねじ込む。
「煙草、吸いたい」
なんとなく、あのキラキラとした子どもたちを前にしてヤニ臭いのはいかがなものかと思うので、月曜日の夜以降は吸わないようにしているのだが、今日は木曜日だ。
ぼそりと呟いて、大学の裏庭にある喫煙所へ足を向ける。午前十時三十分にして、今日一日の体力と精神力を使い切った気分だ。
教員免許の取得を目指している日和は、来年の六月に、三週間の教育実習を受けなければならない。母校の内諾を得るためには、この時期に連絡を入れる必要があるのだ。
一年は先の話だが、内諾を得たことで現実味が一気に増した感がある。
――教育実習、なぁ。
意識しないまま溜息が漏れる。三週間。中学校に。想像だけでしんどい。
つぼみにボランティアとして参加するようになって、早一ヶ月。少しは慣れてきたものの、終わったあとの疲労感は半端ない。楽しい楽しくない以前の問題である。
それが毎日。それも、つぼみとは比べ物にならない生徒数。授業計画。加えて生徒だけではなく、教師陣ともうまく付き合わなければならない。
薄暑の光に焼かれながら二度目の溜息を吐き出したところで、そういえば、と日和はひとつの顔を連想した。
天職であるというように、生徒たちと接している穏やかな横顔。抜群に人当たりが良いという見た目でもないのに、ほっとする空気を持つ不思議な人。あの人も教員免許を持っているのだろうか。それとも、教師として働いた経験もあるのだろうか。
つぼみの細かな実態は知らないが、民間のフリースクールは、どこも赤字ギリギリの運営だと聞いたことがある。数年と持たずに潰れるところも多いというし、とてもではないが、社会保障が充実しているとも思えない。それでも、あの人はあそこを選んだのだ。
なんとなく流されるがままに教師になろうとしている自分とは、ぜんぜん違う。
喫煙所にはまばらな人影はあったが、大きな話し声は聞こえてこない。そのことに安堵して、日和は足を踏み入れた。途端に、混ざった煙草の匂いがきつくなる。
ヘビースモーカーではないつもりなのだが、たまに無性に吸いたくなってしまうのだ。入口から少し離れた壁際を陣取って、煙草に火を点ける。
――あの人は、似合いそうで、でも、似合わないな。
元ヤンという評を聞いたときは言い得て妙だと思ってしまったが、子どもに害を与える可能性のあるものは摂取しないようにも思う。
――煙草の匂いなんて、したこともないし。
「あれ。日和くん、よく会うね」
「あ、……おつかれさまっす」
軽やかな声に、吸いさしを口元から離す。喫煙所に入ってきた塩見は、日和の隣に場所を定めたらしい。にこにこと笑顔で近づいてくる。
「どうしたの。いいことでもあった? なんかひとりで笑ってたけど」
「え、マジすか」
「マジだよ。日和くんイケメンだから許されるけどさぁ、そのへんの男がやってたら、ただの変態だよ。絶対近づきたくない」
キャスター特有の甘い香りが鼻を突く。なんとなく、塩見が好みそうな銘柄だと思った。
「話は変わるんだけど。なんか、真面目にボランティアやってるみたいだね。このあいだひさしぶりにブログ見たんだけどさ。似合わないこと書いてるから、笑っちゃった」
「……やめてくださいよ、恥ずかしい」
「だって、そうじゃん。普段の日和くんとギャップありすぎ。みんなも元気にしてるの?」
「あー、そうですね。してますよ」
早く吸い終わんねぇかなぁと辟易しながら、日和も紫煙を吐き出した。
「けっこういろんな子がいるからさ。驚かなかった? 雪くんとか」
「ちょ……塩見さん」
「誰も聞いてないって。変なところで真面目だね。似合わないよ、日和くん。それとも、真木さんにきつく言われでもした?」
「そういうわけじゃないっすけど」
むしろ、真木はそういったことを日和に言わない。それが信用だというのなら、後ろめたいことをしたくないとも思う。
なんでもないことのように笑って、塩見が灰を叩いた。
「まぁ、でも、真木さんも、ある意味では当事者だもんね。人一倍、気にはかけてるかもね、もしかしたら」
「……え?」
瞳を瞬かせた日和に、塩見が首を傾げる。
「あれ。聞いてないの? 真木さん、ゲイでしょ」
「それ、俺がここで聞いていい話なんですか」
自分の声のトーンが下がった気がして、最後の一息をことさらゆっくりと吐き出した。苛立ったとしたら、他人の目のある場所で、デリケートな話題を持ち出した塩見に対してなのか。
「いいんじゃない? みんな知ってるし。というか、日和くんも知ってると思ってた」
けろりと応じた塩見が、設置されている灰皿に吸いさしをねじ込んだ。細い煙が立ち上る。
「日和くん、中身はともかく顔だけは良いんだから。狙われないようにね」
冗談だったのだろうが、日和は笑えなかった。
言うだけ言って立ち去った華奢な背中を見送って、新たな一本を取り出す。余計なコミュニケーションを取ったせいか、まったく苛々が消えていない。それどころか増した気さえする始末だ。
ゲイだろうが、ノーマルだろうが。良識のある大人が、ボランティアに来ている大学生に手を出すはずがないだろう。もし有り得ると思うのなら、一年間もあそこにいて、塩見はあの人のなにを見てきたのか。他人事なのに腹が立って、日和は思わず天を仰いだ。
いや、いやいや。ないない。他人がどう言われようとも、それどころか、自分がなにを言われようとも、面倒くさいを持論に反論らしい反論も試みない。
まぁ、しかたない。まぁ、いいや。まぁ、そういう見方もできなくもない。だから、まぁ、しかたがない。それが日和のスタンスだったはずだった。
俺らしくない。思えば、たかだか週に一回のボランティアを名目に、禁煙していることもそうだ。なんだか、いつもの自分とずれている。
……ま、いいか。そんな気分なんだろ、きっと。今の俺が。なんとなく。
そうだ、それだけのことだ。そう決め打って、残ったもやもやを煙と一緒に吐き出した。
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