1-5

 四月は、一年の中で最も大学構内に学生が多い季節だ。

 高校を卒業したばかりの新入生が、真面目に講義に出席しているからである。加えて、新入生をサークルに勧誘すべく足しげく在学生も通うので、いっそうの賑やかさを見せるのだ。

 その喧騒に辟易としながら通りを抜けて、ゼミの教室がある棟に足を踏み入れる。小さく息を吐いて、エレベーターのボタンを押した日和の肩を誰かが叩いた。


「おはよう、日和くん」

「おはよう、ございます」


 華やかな塩見の笑顔に圧されつつも、どうにか笑みを浮かべる。文句なしに美人だとは思うのだが、少し苦手なのだ。


「あいかわらず眠そうだね。昨日は遊んでたの?」

「いや、……」

「冗談よ、冗談。だって、日和くん、ゼミの飲み会もちっとも参加しないじゃない」


 かすかに責める色の浮かんだ瞳に、日和は慌てて首を振った。


「あの、その……今度の新歓は行きますから」

「本当? そんなこと言って、新年会も来なかったよねぇ。成美さんたち寂しがってたよぉ」


 誰だ、成美さんって。まったく思い当たらなかったが、おそらく三月末で卒業した先輩のひとりだろう。

 到着したエレベーターの戸を押さえて先を譲ると、塩見がにこりと黒髪を揺らした。誰でもいいから駆け込んでこないかなぁとの願いも虚しく、人が来る気配はない。諦めて、日和は五階のボタンを押した。


「そういえば、日和くんさ」

「はい?」

「どうだった? つぼみは」


 一応、気にかけてくれていたらしい。日和は視線をさ迷わせた。


「あー……」


 どう答えようかと悩んでいるうちに、エレベーターが目的の階に着く。ゼミの教室は、すぐそこだ。

 この愛想とテンションの高さがあれば、つぼみでも塩見は大人気だったことだろう。そんなことを想像しつつ、教室の戸を引く。あたりまえの顔で先に敷居を跨いだ塩見が、既に半分ほどが埋まった席に向かって、「おはよう」と明るく声をかけている。

 その後ろに続いたせいで、無意味に目立ってしまった。心持ち頭を下げながら、いつもの端の席に腰を下ろす。その途端、


「それで? どうだったの、つぼみ」


 対角線上に座った塩見に話を振られてしまった。まだ終わっていなかったらしい。


「なんとか初日は無事に終わりました」


 人目のある場所で言える感想なんて、たかが知れている。ぼそりと応じた日和に、塩見が大袈裟に眉を寄せた。


「なによ、それ。覇気がないなぁ、日和くんは。駄目だよ、そんなんじゃ。教育実習に行く前に、つぼみで鍛え直してもらいなよ」

「ははは」


 俺の評価なんて、しょせんそんなものだ。愛想笑いで応じた日和に、塩見が満足そうにほほえむ。


「せっかくなんだから、がんばってね。真木さんの曜日に入ってるんでしょ? 顔のわりに怖い人じゃないから、安心して大丈夫」

「……そうすかね」


 というか、なんでみんなしてあの人のことを「怖そう」と評するのだろうか。なんだか少し不安になってきた。


「ぱっと見は怖いかもしれないけど。あんなところで正規職員やってるだけあって、優しいし。まぁ、がんばってね!」


 義務のような激励を終えた塩見が、ぱっと隣の席に顔を向ける。同期生と楽しそうに喋り始めた横顔から視線を逸らして、日和は溜息まじりにルーズリーフを取り出した。机に置いたところで、今度は左隣から腕をつつかれる。


「おつかれさま」


 同期生の水原だ。苦笑の色濃いそれに、日和は視線で頷いた。人付き合いの苦手な日和が気になるらしく、面倒見の良さを発揮してよく声をかけてくれるのだ。


「実際、どう? 断り切れなくて行っただけでしょ、日和」

「まぁ、そうだけど」

「塩見さんからのお願いを断れなかったのは同情するけど。引き受けたんだから、最後までやれよ。途中でやめたら怒られるぞ、塩見さんに」


 やめたがっていること前提の助言に、日和は少し考えてから首を振った。


「大丈夫」

「え? なにが?」

「いや、だから。やめないし。案外、悪くなかったし」


 不審な視線にもめげず日和は続ける。


「そりゃ、疲れなかったとは言わないけど。行ってみたら、……まぁ、その、生徒もかわいかったし」

「おまえが」


 信じられないものを見るような視線に変わったが、嘘は言っていない。


「本当に。来週もちゃんと行くから。ご心配なく」


 たしかに自分は適当にできているが、「また来週」と笑顔で別れた相手との約束くらいは、守るつもりでいた。底辺レベルの争いかもしれないけれど、無断で来なくなる人間に比べれば、まだマシな部類だろう。

 それに、と日和は思う。不登校児なんて面倒くさいと決めてかかっていたことも、実は少し反省しているのだ。自分には見えていない面もまだまだあるのだろうが、それを踏まえても、十分すぎるいい子たちだった。

 でも、だからこそ、考えてしまう。どうして、あの子たちが不登校なのだろうなぁ、と。

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