1-4

 盤上で、おのれの王将が追い詰められて泣いている。

 昨今、将棋が一躍ブームになっているが、日和はほとんどやったことがなかった。幼いころに遊びがてら祖父に教えてもらった記憶はあるものの、わかるのは駒の動かし方くらい。

 だが、しかし。


 ――小学四年生相手に、おまけに飛車角落ちでやってもらってるのに、瞬殺って。さすがに、ちょっと。


 ちょっと、なんというか。大人の威厳なんて、最初からなかったかもしれないが。夕方になって将棋盤を持ち出してきた暁斗に対戦しようと誘われて、十五分。

 開始当初、興味津々だったはずの凛音は、「ぴよちゃん、よわーい」と無邪気に言い捨て、お絵描きに戻ってしまっている。その程度の実力なのだ。いや、だが、しかし。


「おい、投了か。ぴよこ」

「……ちょっと待って」

「投了だろ、どう見ても。それともそれもわからないのか」

「ちょっと、ちょっと待って。あとちょっと」


 つぼみの玄関で遭遇したときの涙目はどこへやら。小さな頭がえらそうに踏ん反っている。これだけ真面目に考えるのは、下手をすると大学受験以来かもしれない。


「日和くん、ちょっといい?」

「え……」

「駄目! 勝負の途中!」


 廊下からかけられた声に、日和よりも先に暁斗が叫んだ。どうしようかなと迷っていると、すぐ近くまで真木がやってきた。将棋盤を見下ろして、一言。


「あきの勝ちだろ」

「やった!」

「というか、どう見ても日和くん初心者だろ。やり込めるんじゃなくて教えてあげな」

「しかたねぇな、じゃあ、次は俺が教えてやる。ぴよこはいつ来るんだ? 明日か?」

「え、っと。来週の火曜日かな。じゃあ、そのときに教えてくれる?」


 丸い瞳と視線を合わせて頼むと、満足そうな笑みが浮かぶ。その表情に、自然と日和の顔もほころんだ。素直にかわいいと思うことのできる余裕が、ようやく少し生まれたらしい。

 そのことにほっとしつつ、促されて和室をあとにする。壁の時計は、ちょうど五時を指していた。ボランティアの終了までは、あと三十分だ。

 普段使わない表情筋を酷使したせいか、若干頬が痛い気がする。


 ――まぁ、俺、これだけ人と喋ったこと自体、ひさしぶりだったしなぁ。


 ひとり暮らしの上に出不精にできているので、誰とも話さないまま一日を終えることも少なくない身だ。そう思うと、この空間は、自分にはやはり異次元なのかもしれない。


「ごめん、日和くん。ドア閉めてもらってもいい?」

「あ、はい」

「ここのドアが閉まってたら誰も入ってこないから。暗黙の了解というか」


 言われたとおりにスタッフルームのドアを閉めると、膜が張ったように外の声が遠くなった。けれど、なにかあればすぐにわかる範囲だ。


「どうだった? 今日は」


 勧められて手前の椅子に腰を下ろす。続いた問いかけに、日和は「はぁ、まぁ」と曖昧に言葉を濁した。今日一日をどう言い表せばいいのか、わからなかったのだ。楽しかったと言い切ることは嘘くさい気がしたし、そうかと言って、疲れたと申告することも憚られる。

 奥の机上では、パソコンが静かな音を立てていた。フリースクールの事務仕事がどういうものなのかは見当もつかないが、それなりの量があるらしい。机の端には、封筒や書類がいくつも積み上がっている。


「あっというまにあきが懐いてたから、びっくりしたな。いつもはもう少し時間かかるんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。日和くん、あんまり肩に力が入ってなかったからかな」


 やる気がないと評されているのと紙一重ではないだろうかと疑いながらも、日和はこくりと頷いた。


「日誌と、ブログ――は、今日はいいか。日誌の記入だけ最後にお願いしてもいい?」

「あ、はい」


 差し出されたファイルの最後のページを開く。日付と参加生徒名。あとは、簡単な活動記録と、スタッフのあいだで共有しておきたい事項の記入。


「たとえばだけど、水曜日のスタッフは、日和くんが書いた内容を見て、昨日こんなことがあったのかってはじめて知ることになるわけだから」

「……はい」


 走り書きになりかけていたペン先に力を込め直す。今日、あったこと。

 午前中はみんなで勉強をして、昼食をみんなで囲んだ。午後からは顔を出す生徒が増え始め、最終的に十一人になった。女の子たちは、漫画を読んだり、絵を描いたり。男の子たちは、対戦ゲームをしたりして時間を過ごしていた。各々が無理することなく、各自のペースでやりたいことをしている雰囲気は、やはり家に近い気がする。


「思ってたよりも、みんなが話しかけてくれて、ほっとしました」


 初日の感想が「はぁ、まぁ」だけではさすがにどうかと思い至り、日和は一言付け足した。

 その発言の受け身な内容にも、ツーテンポほど遅れている返事にも、苦言を呈することなく、真木が小さく笑う。


「それならよかった」

「はい。あの、本当になんとか、という感じなんですけど」

「来週も来れそう?」

「え、それはもちろん」


 そういう話だったはずだ。なんの確認なのだろうと瞳を瞬かせた日和に、また真木が笑ったのがわかった。


 ……なにか、駄目だったのだろうか。


「いや、ごめん。駄目じゃない、ぜんぜん駄目じゃないよ」

「なにも言ってないんですけど」

「そんな顔してたから。ごめん、ごめん」


 馬鹿にされているわけではないらしいにしても、案外とよく笑う人だ。気難しい顔で黙り込まれるよりは、ずっといいけれど。


「こんなこと、来たばっかりの日和くんに言うのもあれなんだけど、二回目から無断で来なくなる子もけっこういるんだよ」

「……なるほど」

「今、その手があったかって思ったでしょ。やめてね、俺もそうしようとか思い直さないでね。頼むから。この曜日、本当に人手が足りてないんだよ」

「直さないですよ」


 表情のすべてを読まれている気分で、日和は唇を尖らせた。まるきり子ども扱いだ。さして年も変わらないだろうに。そんな日和を一瞥して、止めのように真木が言う。


「顔が良すぎるのは善し悪しだと思ったけど。日和くんは案外と中身が駄目でいいな」


 褒められている気はいまひとつしないのだが、どうも褒められているらしい。どう反応していいのかわからないまま、書き上げた日誌を手渡す。


「ありがとう」


 印象よりも幾分か白い指先が、ゆっくりページを繰っていく。書いた文章を目の前で読まれると、どうにも緊張する。そわそわとした気分で待っていると、その顔が上がった。

 間近で合った瞳にどきりとしてしまって、そんなに評価が気になっていたのだろうかと日和は自分を訝しんだ。


「おつかれさま。今日はもう終わりでいいよ」

「あの……」

「うん?」

「みんな、まだ帰らないんですか?」


 まもなく終了時間のはずだが、生徒たちの声は変わらず耳に届いている。


「あぁ、小学生組は、そろそろ親御さんが迎えにみえると思うんだけど。上の子たちは自主学習会」

「自主」

「やりたい子だけね。強制じゃないし、自由参加なんだけど」


 よくやるなぁとの呆れまじりの感嘆も顔に出ていたのか、苦笑気味に真木が言い足した。


「学力っていうのは、ひとつの武器なんだよ」

「武器、ですか」

「なにかひとつでも自信を持てるものがあれば、変わるものもあるってことかな」


 瞳にかすかな笑みが浮かぶ。目の前の自分ではなく、話題に上った子どもたちに向いているようなそれ。自信、か。内心で単語を繰り返してから、日和はぺこりと頭を下げた。


「それじゃあ、お先に失礼します。おつかれさまでした」

「うん。気をつけて」


 柔らかい声に見送られるままスタッフルームを出て、生徒たちがいる和室に顔を覗かせれば「帰るの?」との声が飛ぶ。

 商店街に面した窓から入り込む春夕暮れが畳を金色に光らせていて、その色が妙に胸に刺さった。


 ――なんか、やっぱり、違う世界みたいだな。


 先ほどまで、自分があの輪の中にいたことが不思議なほどに。


「ぴよちゃん?」


 不思議そうな呼びかけに、日和は慌てて笑顔をつくった。


「ごめん。また、来週ね」


 また、来週。自然と口から出た挨拶に、幼い顔が笑う。つぼみの戸を閉めて外に出てからも、さざなみのように楽しそうな声は響いていて。その声に、日和はそっと笑みをこぼした。

 アーケードの屋根越しに落ちてくる日差しが、自転車を押す日和の影を長く伸ばしている。

 生まれてこの方、二十一年。かっこいい、美形だ、綺麗だと騒がれることは多々あれど、中身が露見するにつれ、見掛け倒しだと勝手に落胆される人生だった。


 ――こういったところで働く人は、その気にさせるのがうまいんだろうな。


 言い訳を重ねてみたところで、口元がほころんでいることは隠し切れない。

 見た目でなく中身を褒められたことは、随分とひさしぶりのことだった。

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