1-3
「じゃあ、あとはよろしく」
小一時間後、今度こそと言わんばかりに真木が腰を上げたが、要領はわかった気がしたので、日和は素直に「はい」と請け負った。子どもたちは、大人しくそれぞれの課題に取り組んでいる。
「恵麻と雪と
「俺、もう終わった! マキと一緒にごはんつくる」
「マジか。助かるわ。じゃあな、中学生組はがんばれよ」
終わった、終わった、とはしゃぐ暁斗に小さなブーイングが起こる。小学生と中学生なら、する内容もやる量も違うだろう。日和は小さく笑った。
「日和くんは、ほら、あれだ。塩見さんと同じ大学の後輩だから、きっと頭も良いぞ」
「ちょ、真木さん。変なハードル上げないでくださいよ……」
日和の訴えは、「じゃ、よろしく」とのおざなりな声と、ぱしんと閉まる襖の音で返されて終わった。所在ない気分で、問題に取り組む子どもたちを見渡す。
よどみなくシャーペンを走らせている髪の長い少女が恵麻。中学三年生。その隣で集中力が持たないのか、やる気が出ないのか。シャーペンの動きが鈍い少年が雪人だ。中身はさておいて、名前から判ずる肉体的性別は男で間違いないらしい。ちなみにこちらも中学三年生。
英和辞書を捲っているボブカットの少女が凛音。彼女が中学二年生。彼女たちから少し離れたところで問題と格闘している少年が紺。中学三年生で凛音の兄でもあるらしい。
兄妹揃ってとなると親も大変そうだなぁ。ここだって無料なわけがないのだし。そんな余計なお世話を焼ける程度に落ち着いてくると、少々、暇だ。日和が面倒を見なくとも、みんな黙々と取り組んでいる。
「ぴよちゃんさぁ」
おもむろに顔を上げた恵麻に問いかけられ、しばらくしてから自分のことだと気がついた。
「えー、と。恵麻ちゃん。どうしたの?」
「まきちゃんのこと、怖くなかった?」
てっきりわからない設問でもあったのかと思いきや、世間話だったらしい。
「怖い?」
「うん。たまにね、まきちゃんのこと怖いって身構えちゃう人がいるの。優しいんだけどね、まきちゃん。黙ってると、お顔が怖いから」
「ははは」
なんとも答えづらいが、まぁ、そうなのかもしれない。整っているかいないかで言えば、整っている顔だからこそ、余計に。喋り出すとそうでもないが、黙っているときの雰囲気は、たしかに近寄りがたかった。ただ。
――最初に見たのが、あれだったからなぁ。
生徒を見る表情は、優しかった。つまり、そういうことなのだろう。俺に対する扱いは、少し雑な気はしたけれど。
正直にそうとも言えず、乾いた笑みを浮かべるに留めた日和に、恵麻はこう続けた。
「前にね、駄菓子屋のおばちゃんにも言われてたから」
「ん? なにを?」
「あそこのスタッフの若いお兄ちゃんたちは、きっと昔はワルだったんだって。それが優海さんと出会って更生して、お手伝いを始めたんだろうって」
「……」
「誰が元ヤンだ、というか、そもそもフリースクールをなんだと思ってるんだって、
「そう、なんだ」
「うん。まきちゃん、絶対に嘘は吐かないから」
誰だ、和くんって。そして、なんだ、その信頼感。
……まぁ、あの若さで民間のフリースクールに骨を埋めようとしてる人種だもんなぁ。
そんなこともあるのかもしれない。どちらにせよ、教師一家に生まれたというだけで、なんとなく教育学部に進学した自分とは相容れないに違いない。いい人ではあるのだろうけれど。
場を任されたなけなしの責任感で、手の止まっている恵麻に続きを促す。
「そろそろ続きに取りかかろうか。恵麻ちゃんは午前中にどこまで終わらせるの?」
「今日は、この章が終わるところまでかな。木曜までにあとふたつやって、金曜日にテストするって決めたの」
「へぇ、じゃあ、もう少しがんばろうか。わからないところがあったら聞いてね。このページの最後までやれたら、教えてくれる? 一回、そこで答え合わせしようか」
「うん!」
「あの、俺ははじめて今日ここに来たから」
「知ってるよ?」
「いや、その、だから、いつもとやり方が違うとか、こういうふうに進めたいとか。そういう要望があったら教えてね。俺に気を使わなくていいから」
「なんかぴよちゃんって」
「ん?」
「見た目のわりに真面目なんだね」
今度こそ笑うしかなくて、眉を下げる。髪を染めているわけでもなければ、派手な服装を好んでいるわけでもないのに、初対面の中学生にまでそう評されてしまうのだ。もはや自分ではどうしようもない。
――姉ちゃんなんか他人事だと思って、いっそのこと、もっと顔を利用したらいいのにとか言うけど。そんな小器用な真似ができる性格だったら、こんなことになってねぇし。
こんなこと。休みの日の朝っぱらから、たいして親しくもないゼミの先輩に押し切られ、よくわからないまま子どもたちの勉強を見ている現状。
溜息を呑み込んで、子どもたちの様子を窺う。日和が指導するまでもなく、みんなペンを走らせている。そのなかで、動きが鈍いのが雪人だ。
……どうしようかな。
声をかけたほうがいいのだろうかと思案していると、廊下からカレーの匂いが漂ってきた。なんだか実家に戻ってきたみたいだ。
「あ、カレーだ」
ぱっと雪人が顔を上げる。日和に、というよりは、ひとりごとの調子で言葉を紡ぐ。
「がんばって、早く終わらせよっと」
先ほどまでとは桁違いのスピードでシャーペンを動かし始めた雪人を見守っていると、凛音が、
「お昼はみんなで一緒に食べるんだよ」
と教えてくれた。
「よかったね、ぴよちゃん。カレーはまきちゃんのメニューの中で数少ない当たりなんだよ」
まずいカレーってあんまり食べたことないけどなぁと思いながら、「そうなんだ」と頷く。
「冷蔵庫にあるものをなんでも入れるから微妙な味になるんだよ、まきちゃんの場合」
「ねー。何年もお昼ごはんつくってるのに、なんで上手にならないんだろうね」
子どもとは、かくも無邪気で残酷なものである。恵麻と凛音の雑談を苦笑いで聞きながら、襖の向こうへ意識を傾ける。
声変わり前の甲高い声と、応じる静かな声。今の時間、この子たちと同じ年頃の子どものほとんどは、学校の教室で授業を受けているはずだ。ここは、学校とはまったく違う。
家に似ていると改めて思った。日和の実家というよりも、「帰る場所」、「受け止めてもらえる居場所」というイメージとしての家だ。畳の部屋で教材を広げ、台所からはごはんの匂いが漂ってくる。
――こういうのも、ありなのかもしれないな。
いつのまにか、恵麻と凛音の話の輪に雪人も加わり、勉強を続けているのが紺だけになっていた。あともうちょっとがんばろうか。日和の声かけに、みんなの意識が問題集に向き直る。ひさしぶりに賑やかな人数で囲んだ昼食は、たしかに絶品ではなかったけれど、おいしかった。
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