傷つかない世界(全3話)

傷つかない世界①

真里孔マリアナ大学 遅念ちねんの研究室

左手であごひげを触り、考え込む遅念。デスクを挟んで目の前に並んで座る夫婦からの依頼を引き受けるかどうかで悩んでいる。


50代後半の夫婦で、旦那の名前は加賀和かがわ タケフミ。大手食品メーカーの会社員。妻のミホは、クリーニング店でパートをしている。


相談内容は彼らの一人息子について。話を聞き、遅念の専門である『降霊』と『憑依』の儀式が関連してそうではあるが、家庭内で解決するべき問題だとも感じている。



タケフミ「息子のカズヤが部屋に引きこもり始めたのは、8カ月前のことです。会社に行きたくないと言い始めました」


遅念「カズヤくんの年齢は?」


タケフミ「25歳です。今年大学院を卒業して就職しました」


ミホ「入社して2〜3カ月経ったころから、家に帰ってくると『ウチの会社はブラックだ』と愚痴をこぼすようになりまして……上司の方から毎日のように叱られているみたいでしたし、帰ってくる時間はいつも日付が変わった後でしたから、厳しい職場なのだろうとは感じていました」


遅念「僕だったら初日で辞めてるだろうなぁ……ストレスフルな会社で働き続け、カズヤくんは精神を病んでしまったわけですね」


タケフミ「それだけではありません。むしろあの子の心を傷つけたのは私の言葉だったと思っています……あまりにも愚痴が多いカズヤに、私は『甘ったれたことを言うな』と怒鳴りました。それから2時間近く説教をしてしまったのです。その日以来、カズヤは自室に引きこもるようになりました」


ミホ「今は1日3食作り、毎日決まった時間にカズヤの部屋の前に置いています。部屋の扉が開くのは食事を取るときと、トイレのときくらいです。トイレは私たちが寝ている深夜に行ってるようで、カズヤとはずっと顔を合わせていません」


遅念「……で、カズヤくんは部屋の中で『降霊』と『憑依』の儀式をやっているかもしれないと」


タケフミ「はい。引きこもりはじめてしばらく経ったころ、カズヤに部屋から出てくるよう強要しました。これもいけなかったと思っています。するとカズヤはある人の名前を口にし、その人が死ぬと扉越しに私に言ってきたのです。その人はウチの家族と近所付き合いのある、同じ団地に住んでいる方でした。翌日、突然意識を失って救急車で運ばれ、病院で亡くなったそうで……」


ミホ「私が説得したときも同じで、カズヤは団地の方の死を予言しました。しかも3人。やはり翌日、カズヤの言った3人が亡くなったんです……偶然とは思えません。おそらくカズヤは部屋の中にいながら、外にいる人間を殺しているのです」


タケフミ「カズヤが働いていた会社の上司や同僚にも体調を崩す方が急増したと聞きました。もしかしたら直接手を下さず人を殺したり、病にかけたりする呪いのような技術があるのではと調べているうちに、遅念先生のお名前と研究について知りました」


遅念「なるほど……」


ミホ「カズヤがその……団地の方を呪い殺して見せたのは、私たち両親もいつでも殺せるのだと伝えたかったからだと思います」


遅念「でしょうね。死にたくなければ自分には口出しせず、住まいや食事を提供し続けろと言いたいのでしょう。困っちゃいますねぇ」


タケフミ「情けない話ですが、いつ息子に殺されるかと毎日怯えております……そこで先生なら何か解決方法を知っているのではないかと思い、相談させていただきました」



左手で後頭部をかく遅念。タケフミとミホの目は涙ぐんでおり、救いの手を求めているのが伝わってくる。遅念は2人を失望させないためにも、今の自身の考えを率直に伝えることにした。



遅念「正直、僕にとってアナタたちのご家庭事情などどうでも良いことです。それに親子の問題に他人である僕が口を挟むのはいかがなものかとも思っています。反面、カズヤくんが行っているであろう儀式には興味があります。僕の理論では実現できない儀式を成立させている。その仕組みを知りたい」


タケフミ「はぁ……」


遅念「カズヤくんとお話しする機会を作ってくださいますか?僕の目的はあくまでカズヤくんとの対話を通して自分の知見を広げることです。が、その対話の中にカズヤくんが外に出たくなる糸口がある……かもしれません。保証はできませんけどね」



タケフミとミホは顔を見合わせると笑顔を浮かべ、「よろしくお願いします」と遅念に頭を下げた。

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