愛と幸福のセレナーデ

愛と幸福のセレナーデ


 アルバイトを終えて外に出る。すっかり夜も更けた時間だが、町は色とりどりのイルミネーションに彩られ、みすぼらしい枯れ木の枝を電飾が飾り、人のまばらな通りをジングルベルがはやし立て、俺の吐く息は白かった。


 今夜のこの町にはあちこちがセックスであふれている。キリスト教徒でもない俺や多くの皆がこの日を祝うのは、何も神の神聖を感じるためではない。

 生身の人間の肌のぬくもりに歓喜し、快楽と蜜を称賛するためだ。

 かくいう俺も、今日というこの日はその愛を叫ぼうと思っている。そういう約束をしていたからだ。


 芹香さんから送られたメールに従い、指定されたアパートの一室へと向かう。

 レンタルルーム。言い換えれば、セックスをするためだけに間借りされた些細な部屋だ。

 ドアチャイムを鳴らし、中から芹香さんがロックを開けて顔を出す。


「あ、きたきた。待ってたんだよ」


 俺の手首をしっかりと握り、ぐいと引っ張りながら入口の鍵を閉める。アパートの小さな玄関口で彼女は胸を寄せ、キスをせがんでくるが、俺はそれを避けるようにマフラーをほどく。


「もう、いじわるなんだから」


 そんなことを言う芹香さんの後ろをついて、リビングのほうへ移動する。

 リビングというにはあまりにも心もとない、狭いワンルームにやたらと大きなベッドと小さなテレビ、それと小さな卓袱台があるだけだ。卓袱台の上には、食べかけのカップ麺が置いてある。


「ねえ、蒼君も食べるでしょ。ちゃんと買ってあるよ」


 何の悪気さえなさそうにそんなことを言った。


「いや、悪いけど」


「あら、どこか調子でも悪いの?」


「そういうわけじゃなくて……多分家で、茉莉がごちそうを用意してくれていると思うので……」


「そうね、茉莉は料理が上手だから……。でも、いつもごちそうばかりじゃあ飽きるでしょ。たまにはこういうジャンクなものだって食べたくなる。ねえ、そうでしょ?」


 いつもの御馳走の話をしているわけではなく、今日は今日でまた、特別な日なのだから、茉莉も特別なものを用意しているはずだ。と、言おうとしたけれどやめた。


 芹香さんだってさすがにそれを解っていないわけではなさそうだ。

 カップ麺の傍らには、これ見よがしにシャンパンのボトルが置かれてある。よくは知らないが、黒い瓶に金色の星が描かれている。たぶん高価なものなのだろう。

 卓袱台の横にべたりと座り込んだ芹香さんがカップ麺をすする。至福の表情を浮かべる。


「知りませんよ。茉莉の作ったごちそう。食べられなくなりますよ」


「どうだろう? あたしの分まで作ってるのかしら?」


「まちがいなく作っていますよ。たまには早く帰ってみんなと一緒に食卓を囲んでみては?」


「だって居心地悪いじゃない? 蒼君はよく平気でいられるよね」


「平気じゃ、なかったですよ。でも、もう慣れました」


「あたしはなれないな。たぶんいつまでたっても。ホント、時々気が狂いそうになる」


「時々なんて言って、ほとんど家にいないじゃないですか」


「今日も、帰るつもりはないわよ」芹香さんはにやけながらに言う。「蒼君も、今日は帰らないのでしょう?」


 僕は、なんて言っていいのか、言葉を選ぶことも出来ずに黙っていた。


「じゃあ、シャワー浴びてきなよ。そしたら乾杯しよ」


 芹香さんは箸を握ったままの手でシャンパンボトルの首を掴み、持ち上げて見せた。


「俺、まだ未成年ですよ」


「だいじょうぶよ。蒼君はもう、子供じゃないんだから」


 いつまでたっても子供のままみたいな芹香さんが言う。

 どういって切り出せばいいか迷っていたけれど、今以上のタイミングはないと思った。あまり長く引っ張ると、情に流されてしまう。性欲に流されてしまう。


「俺、もうレッスンは十分だと思うんです」


「え、どういうこと?」


「つまり、もう、芹香さんとはセックスしないっていうことです」


「え、だって蒼君は」


「だいじょうぶです。約束は守りますよ。茉莉は、俺が寝取ります」


「そんな、無理に決まっているわ。だって茉莉は……」


「茉莉はもう、親父とはセックスしませんよ。だってセックスは、一番好きな人としかしちゃあいけないんです。だから俺も、芹香さんとはセックスしちゃあいけないんですよ」


「そんな、そんなことを言ったら……」


「芹香さんが一番好きなのは、だれですか?」


「それは――」芹香さんは苦い顔をした。「――蒼君。かな」


「それは嘘ですよ。俺なんて、所詮親父の身代わりでしかないですから」


「そんなことは――」


「ありますよ。茉莉のことだってそうです。親父は所詮、芹香さんのことが好きで、その身代わりに茉莉を使っていただけなんですよ。まったく。嫌になる話じゃないですか」


「でもね、蒼君……」


「いいですよ、わかっていますから。でも、俺たちは俺たちなんですよ。親父と芹香さんが素直に愛し合ってくれれば、それで平和になっていたはずの話なんですよ。だから、もう俺たちを巻き込まないでください」


 芹香さんは唇を固く結んでいる。俺は罪悪感を覚える。そもそも彼女を垂らし込んでしまったのは俺ではないのかと考える。それなのにまるで芹香さんだけを悪者に仕立て上げて、自分は責任から逃げるようでもある。ならばせめて、最後に救いの言葉を残す。


「だいじょうぶです。茉莉はちゃんと、俺が寝取りますから」



 芹香さんをアパートの部屋に一人残し、俺は自宅へと帰った。自宅では父と茉莉が俺を出迎えてくれた。


「メリークリスマース」


 と叫びながら、まるで子供を茶化すように父がクラッカーを鳴らした。中身の飛び出ない、音だけのクラッカーが俺の耳元を不愉快にさせた。そして無意味にシンと静まり返った家の中で父が白々しく笑って見せた。


 テーブルの上には豪華な料理が並ぶ。七面鳥があるわけではないが、手巻きずしのセットとと茶碗蒸し。それにやたらと大盛りに用意された唐揚げの皿はまごうことなき茉莉の用意した御馳走である。


「それじゃあ、蒼も帰ってきたことだし、そろそろ始めるか」


 父がそんなことを言ったので、俺はわざとらしくに言い返す。


「芹香さんが、まだ帰ってきていない」


「いや、あいつは……」


 父が言葉を濁らせた。追い打ちをかけることにする。


「クリスマスにはごちそうもいいけどさ、かえってカップ麺とか、食べたくならないか?」


「いや、そりゃあ僕も好きだけどさ。今日はせっかく茉莉が……」


「うまいカップ麺を食わせてくれるところがあるんだよ」


 俺はそう言いながら、父にスマホの画面を見せる。芹香さんからの、あのレンタルルームの場所を示した地図だ。


「親父のスマホに、転送しておいたから」


 そう言った俺に父は「そうか」とだけ答えた。

 俺が手を洗って食卓に座ると、親父はシャンパンのボトルを開けた。ポン! という軽快な音がリビングに響いた。よく見れば芹香さんが用意していたのと同じ黒い瓶の高級そうなものだった。


 父はキッチンから細長いグラスを二本取り出し、シャンパンを注いだ。二つのグラスは俺と茉莉の目の前にそれぞれ置かれた。


「あのさ、俺たちまだ、未成年なんだけど」


「でももう、子供じゃないだろ」そう言ってまた、「メリークリスマース!」とおどけたように叫ぶ。俺と茉莉は仕方なしにグラスを合わせた。


「親父は、飲まないのか?」


「ああ、僕はちょっとね。ラーメンでも食べたい気分なんだ。だから、お前たちは二人で好きにヤッてろ」


 そうう言い残して父は、上着を着こんで家を出て行った。


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