不徳なる青春のためのレクイエム2

 芹香の誕生日、彼女のアパートでささやかな誕生日パーティーをすることになっていた。


 僕はシャンパンを買っていき、料理は茉莉が用意してくれていた。だけど、芹香は帰ってこなかった。


 娼婦の仕事をやめた芹香は、それでも夜型の体質が抜けないと言って、居酒屋でのアルバイトをしていた。しているはずだった。


 その日が、働いているはずの居酒屋の定休日だったことは僕だって気づいていた。もっと正直に言えば、芹香がデリヘルの仕事をやめていないことにだって気づいていた。


 僕に、どうしてそのことを指摘する権利があるだろうか。僕が芹香と再会したのはデリヘルの仕事の関係だ。


「ねえ、直人さん。せっかくだから、パーティーを始めちゃいましょうよ」


 茉莉が言った。


「そうだね、せっかく茉莉ちゃんがごちそうを作ってくれたんだからね」


 僕はお酒が強い方ではない。でも、芹香は仕事柄というか、お酒にはめっぽう強い。せっかくの誕生日なのだからとたくさん用意したお酒は、僕が一人で飲むことにした。


 言ってしまえばヤケ酒だ。少し意識が朦朧としかかっている時、ふと気づくといつの間にか芹香は帰ってきていた。僕の顔を心配そうにのぞき込み、「直人さん、だいじょうぶ?」と心配そうに声を掛けてくれた。


 僕は嬉しくなってつい、芹香の手を握り、口づけを交わした。まだ若い、初々しさの残る芹香を、力強く抱きしめた。


 彼女は抵抗などしなかった。そうしてくれれば、きっと目を覚ますことができただろうに……。


 いや、そんなことはただの言い訳だ。青春時代の甘い残り香に心酔した僕は、彼女に甘え、あの頃何故そうすることができなかったのだろうかと嘆きもした。


 今の芹香は、僕の知っている、あの無邪気な芹香ではない。目の前にいる彼女こそが、僕があの時愛した芹香に違いなかった。


 茉莉の肌はきめ細かく、触れると滑るように滑らかだ。芹香はは今でも魅力的ではあるが、やはり僕の記憶の中にある、当時激しく恋した初恋の相手に近いのは茉莉の方だ。


 茉莉を抱きしめ、軽く愛撫するだけで全身が熱い熱を放ち、その肌全体がしっとりと濡れる。すでにおいてしまった自分の皮膚に茉莉の体は吸い付くように密着し、それだけで感情を揺さぶる。今の芹香にはない感覚だ。だけど、おそらく当時の芹香の肌は、きっとこんなだっただろう。


 僕は決してペドフィリアではない。だが、ロリコンかと聞かれれば確かにそうかもしれない。ロリータコンプレックス、いわゆるロリコンは世間一般では幼児性愛者と勘違いされがちだが、実際は少し違う。ロリコンという言葉の原点となったナボコフの『ロリータ』は、当時十歳だった失われてしまった初恋の相手の面影を別の少女に見つけることにある。自分が年をとってもその初恋の感情はいつまでも強く残り続けるから、記憶の中にある少女に対する恋情がいつまでも残り続けているのだ。決して幼女が好きなわけではなく、幼児期の恋愛感情がそのまま生き続けているだけに過ぎない。


 その点において僕は今でも学生時代に感じた芹香に対する恋愛感情をいまだ引きずっている。だから当時の面影を引き継いでいる茉莉に激しく惹かれてしまうのだ。



 酔いの醒めかけたシーツの上の僕は、激しい嫌悪にさいなまれた。取り返しのつかないことをしてしまい、パニック状態になった。


 若い芹香はそんな僕をやさしく抱きしめて、キスをした。


「だいじょうぶよ直人さん。そんなに心配しないで。あなたは、芹香を、わたしを永遠に幸せにしてくれると誓ったんでしょう」


 彼女は自らを芹香と名乗り、それから先も、僕と二人でいる時は芹香だと名乗り続けた。


 あくまで僕が愛しているのは、ずっと芹香ただ一人なのだ。芹香に「結婚したいと考えている。これから先も、僕がずっと幸せにするから」そう言った僕の言葉に嘘はない。


 僕は、これから先も芹香のことを愛し続け、彼女の幸せを心から祈るのだ。


 僕たちは新しい家族となり、一つ屋根の下で暮らすようになった。娘の茉莉は家事をこなし、料理を作ってくれる。しかし、母の芹香はというと家事のいっさいは苦手らしく、そのかわりに夜間居酒屋でのアルバイトをして生活の支えとした。なにも、そこまでしてくれなくても、生活の面倒くらいは見てやれると思っていたのだが、やはりそういうことだけでもないらしい。


 芹香は、相変わらず客を取っての仕事をこなしているらしい。無論僕にはそんなことを指摘するわけもない。だけど現在、居酒屋で仕事をしていないことは知っているし、それでも生活費と称していくらかのお金を家計に回している。理由をあれこれ考える必要などなかった。僕はそんな妻を、汚れていると判断するのか、けなげであると判断するのかの決定はできないし、する必要もない。


 少なくとも、芹香が夜間に家にいないことが僕と茉莉にとってはとても都合がよかったのだということは言うまでもない。


 正直に言うならば、僕は芹香とセックスをするのが怖かったのだ。芹香は、どうあれ一応セックスのプロである。それに対し、おそらく僕はその件に関してかなり下手なのだという自負もある。芹香を抱きながら、いつも彼女は心の中では不快に思っているのではないかと、そういう懸念を拭い去ることはできなかった。その点においても茉莉はまだ純情で経験が浅い、だからそこにおいて安心できたということもあっただろう。


 芹香とは、最近ほとんどセックスをしなくなっていた。僕には茉莉がいて満足していたし、芹香は僕とやっても楽しくはないのだろう。だけどこれが、間違っていることなんだということも理解している。


 まだ若い茉莉は、いつかは年相応の恋人を見つけ、僕の前からはいなくなる。そうなる日が決して遠い未来ではないことくらいはわかる。僕と茉莉とでは時間の流れ方が違う。僕にとっての一年なんてあっという間のことだけど、茉莉にとっては考えることもおぼつかないくらいの未来の話だろう。


「ねえ、直人さん」と茉莉は言う。


「わたし、妹か弟が欲しいのだけど、そういうことは考えていないの?」


ことを終えた後、まだ少し濡れた薄桃色の乳首を隠すこともなくあけすけに言った。

一瞬言葉に意味を理解が追い付かなかった。彼女は僕との子供が欲しいと言い出したのかと思ったが、妹か弟。と言ったのならば意味は違うだろう。


「ほら、わたしさ。ずっと妹か弟が欲しかったのね。だけど、蒼はわたしのおにいちゃんだったみたいだしさ。憧れだったんだよねえ。お姉ちゃんっていう存在に」


 冗談で言っているのか。あるいは何かの当てこすりのつもりなのか。

 本気で言っているのかもしれない。


「芹香とは、もうそういうこと永らくしていないんだ」


「そう……なんだ」


 茉莉は淋しそうな表情をした。まるで、そうしていない僕のことを責めるように。

 僕としては、そのほうが茉莉が喜んでくれるものだと思い込んでいた。

 僕が彼女だけを愛していると思ってくれていることのほうが嬉しいことだと思っていたのだ。だけど、それは違う。


 茉莉のその言葉の裏には、やはり芹香の身代わりを務めていただけなのだという意思を感じる。


 僕は、どう答えてやるべきかわからなかった。僕は自責の念から、身を護る言葉を探した。


「芹香は、どうやら僕のことを拒んでいるみたいなんだ。多分、よそでほかに交際し

ている男性がいるんだと思う……いや、ごめん。こんな話、するべきじゃなかったよね」


「実はわたしも、そうではないかと疑っていた節はあるんです」


「やっぱり、そうなのか……」


「わたし、少し調べてみますね。浮気なんて、絶対に間違っているんです。ママにはちゃんと、直人さんと幸せになってほしいし、ママだってそれを望んでいるはずなんです。わたしが、必ず何とかするので、ママを、見捨てないでください……」


 茉莉はうっすらと涙を浮かべ、そんなことを訴えてくる。


「見捨てるわけないじゃないか」


 そう言って茉莉を抱きしめる僕に、そんなことを言う資格があるのだろうか。『浮気なんて、絶対に間違っているんです』と言った茉莉の言葉を、たぶん僕も、そして茉莉も理解できていない。



 それからしばらくしたある夜。僕は茉莉にメールをした。いつもそうしている。芹香が仕事に出ていて、息子の蒼が部屋にこもっているタイミング。僕が茉莉にメールをすると、彼女は静かに一階の僕の書斎へやって来る。


 僕はベッドの上に寝転がり、彼女を待つ。しかし今日の彼女は少し様子が違った。

 ベッドの縁に腰掛け、やさしく見守るような目で、それはまるで母親のように言った。


「直人さん、ごめんなさい。わたし、もう直人さんとセックスはしないことにしたんです」


 いつかこんな日が来るであろうことは予測していたし、僕はそれを素直に認めるしかなかった。しかし、彼女は僕に追い打ちをかけた。


「わたし、好きな人ができたんです。それで、気づいたのですが、一番好きな人以外とセックスするのは、いけないことなんです」


 ――そんなことは、当然のように知っていた。だから僕は茉莉としかセックスをしなくなったのだ。だけど、茉莉の言葉から、彼女にとっての一番好きな人というのが自分ではないことを気づかされた。


「そうか、それならその人と幸せになるのがいい」


 それは、心にもない言葉だった。彼女の、茉莉の三倍近くの人生を歩んできたにもかかわらず、未だ心は思春期から何一つ成長できていないくだらないおっさんの精いっぱいの見栄だ。


 そして、そんな僕よりもはるかに大人な茉莉が諫めるように言う。


「だいじょうぶよ。直人さんの一番好きなママ、芹香はちゃんと、直人さんだけを見てくれるように、わたしが説得するから」


 いつまでたっても幼稚な僕には、やさしい言葉を返してやれるような器量なんてない。

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