青春と恋のワルツ
青春と恋のワルツ
茉莉たちが家に引っ越してきたのはそれからすぐのことだった。
〝早い方がいい〟といったのは俺だが、まさかこんなに早く越してくるとまでは思っていなかった。いつまで住むかも決まっていなかった茉莉たちの住居はマンスリータイプのマンションだった。夏休みの間に越してきて、ちょうど一か月を迎えるところだったので、いっそのことと言って急いで解約したらしい。
芹香さんの部屋はなく、父と同じ寝室を使うということだ。夫婦になるというのだからまあそれもいいだろう。芹香さんの荷物は段ボールのまま一階の使っていない和室に倉庫のように押し込んだ。
二階に上がって俺の部屋のすぐ隣が茉莉の部屋になった。
「うわー、ほんとにこの部屋ひとりで使っていいの?」
「そりゃあ、茉莉の部屋だからな」
「わたし、自分の部屋なんて初めてなんだ。エアコンだってあるよー」
「ほとんど使っていない部屋だからな。エアコンはあるけどだいぶ古い型だし、使う前にメンテナンスした方がいいだろうな」
そんな忠告に耳を貸すこともなく白い前歯を輝かせながらはしゃぐ姿には、まだあどけない十六歳の少女であることを再認識させた。出会って以来しっかりした大人びた雰囲気を感じていたから少しだけ意外だ。
それに、初対面で感じた苦労なんてしてこなかったであろう強気な性格という俺の印象が全くあてにならなかったということも証明された。
俺自身片親で育ったことにどこか引け目を感じて、自分は勝手に『苦労してきた少年』だと思い込んでいたのに、金銭的にも裕福で、おそらく茉莉がそれ以上に苦労をしてきたことなんて想像できていなかった。
なぜならそれは彼女がそんな引け目をおくびにも出さない強さを持っていたからだ。あるいは引け目さえ感じていなかったのかもしれない。
この部屋は元々母が衣裳部屋として使っていたらしい。母はおしゃれ好きだったのだと聞いているが、家を出る時にたくさん持っていた衣装はすべて持ち出した。残して行ったのは俺と無駄に並ぶ空のクローゼットだけだ。
父は茉莉にこの部屋を使ってもらうといいんじゃないかと提案した。ただでさえ動かすのも億劫で埃をかぶっていたクローゼットは、まだ若い茉莉なら有効活用できるだろうということだった。
だけど、茉莉の持ってきた荷物はとても少ない。段ボールでたった四つの彼女の荷物ではこの部屋のクローゼットは空洞だらけだった。
茉莉に言われるがままに荷解きを手伝う。不意に開けた段ボールから下着が出てきて戸惑った。
「あ、ごめん」
「ああ、いいのいいの。別にそんなことで減るもんじゃないから。こっちこそごめんね。手伝ってもらうならもうちょっと気を遣っておくべきだった」
茉莉が悪いわけではないことはわかっている。それでも俺はその夜ベッドの上で、どうしても茉莉の部屋の彼女のにおいと彼女の下着を思い出してしまう。自分と同い年であるはずの彼女が持つ、色香の強い下着のデザイン。それを見られてしまったにもかかわらずそれほど気にしていない態度に自分がいかに幼稚であるかを思い知らされてしまう。
そして、薄い壁一枚を隔てたそこに茉莉が寝息を立てているであろうことに理性が飛びそうになる。いけないとは思いつつ、壁に耳をあて息を殺す。当然そんなことで寝息が聞こえるわけではない。だが、壁に耳を当てることで、この家全体の軋みを感じてしまうことに気が付いてしまった。おそらくそれは隣の茉莉の部屋からではなく、一階の父の部屋だろう。その場所を中心に一定のリズムで家全体がかすかに揺れていることに俺は気づいてしまい、そっと壁から耳を話した。
翌朝月曜日。一階のリビングからのなれない匂いで目を覚ます。普段はちょっと目が覚めてもぎりぎりまでベッドから起き上がることはなかったのだが、一度気になってしまったものは仕方ない。
ダイニングテーブルには芹香さんと父がすでに座っている。芹香さんはともかく、フルリモートの父が早くに起きているのは珍しい。
キッチンには茉莉の姿。すでに制服を着こみ、その上からエプロンをつけて皆の朝食を作っていた。
「あー、おにーちゃんおはよー。起きてきたんだー。せっかくこれ出来たらかわいい妹が起こしに行ってあげようとか考えていたんだけどなー。ほら、よくラブコメなんかであるベッドの上で馬乗りになって起こすやつ」
「マジか……俺、やっぱもう一回上で寝てくるわ」
「いーよ、せっかく起きたんだからさ」
「それじゃ俺はよくねーんだが」
「え、何か言った?」
「いや、何も。つか、いきなりおにーちゃん呼びかよ」
「だって事実そうでしょ」
「あれ、でも入籍ってまだ……」
「そのうちなんだしおんなじじゃん」
――事実それはそうだと思っている。父からしてみれば、俺がこの家族とうまくなじめるかどうかを心配しているらしく、しばらく一緒に住んで問題ないようであれば籍を入れるつもりだと言っていた。
こんな曖昧な関係を続けるよりも、俺は早くに二人が結婚したほうがいいと思っている。そのためには俺がまず、茉莉たちと打ち解けたと父に感じさせなければならないのだろう。
白いご飯に玉子焼きとみそ汁。決して豪華というわけではないが、それでも出来立ての料理を朝から食べるなんてことはこの家では珍しい事だった。
朝は大体菓子パンかシリアルですませていただけに、こういう家庭的な料理が出るなんて贅沢極まりない。それに、茉莉が作ったというみそ汁は……
「……うまい」
「でしょ!」と芹香さんが言う。「ほんとはあたしが教えたんだけどね、いつの間にかすっかりこの子のほうが料理うまくなっちゃって。この子、結婚するなら絶対に優良物件だと思わない?」
「え、ええ……そうですね」
気のせいだろうか、芹香さんはやたらと俺と茉莉とをくっつけようとしているように感じることがある。よく漫画やラブコメでそういう展開はあるのだが、そうなってしまうのは気まずいような気もする。
とはいえ、それは茉莉の意志あってのことで、俺や、ましては芹香さんの言うところではない。しかし、もしそうなったとして反対されることがないというのは気持ちの上では楽かもしれない。
少し気になって調べてみたのだが、どうやら義理の兄弟同士による結婚は法的に問題ないのだが、一つ屋根の下での恋愛を家族に告げられず、背徳的な意識により駆け落ちするケースが多いらしい。つか、そんなことを調べている俺はあきらかにキモい。茉莉に知られたら軽く死ねるだろう。
朝食を終えて二人並んで歯を磨く、それが何だか気恥ずかしくもあり、慌てて磨き終える俺に茉莉は「もっとちゃんと磨かなきゃダメだよ」とまるで母親のようなこと言う。
俺が先に家を出て、慌てて追いかけてきた茉莉は手に小さなバッグをぶら下げていた。
「ちょっと待ってよおにーちゃん」
「別に、一緒に行かなくてもいいんじゃないか」
「それはそうだけどさ、はい、これ」
「これは?」
「お弁当だよ」
「いや、そんな、悪いよ」
「なによそれ、この間おにーちゃんが言ってたじゃん。わたしたち、同じ家族なんだしさ、お弁当なんて三つ作るのも四つくるのも一緒よ。なにも学食でお金なんて払わなくても、そのほうが節約になるでしょ」
「いや、まあ……それはそうなんだが……」
「じゃあこれ、はい」
弁当を受け取った。話の筋から考えるとおそらく茉莉が作ったものだろう。それに、四つということは家族全員分だ。芹香さんは夜間居酒屋でアルバイトをしているらしく、父もリモートで自宅にいる。それなのに二人の昼食まで茉莉が作っているというのはどうだろうと
少し、茉莉には働かせすぎな気がする。どこかで自分も負担してやらなければとは思
う。
それにしても――
「あのさ、茉莉」
「なに? おにーちゃん」
「その、おにーちゃんっていうのはやめてくれよ」
「え、だめなの?」
「だめだろ」
「なんで? 恥ずかしい?」
「恥ずかしいっていうより、学校での立場考えてみろよ。今や学校中の人気ものである茉莉とひとつ屋根の下で暮らしているという俺に向けられる羨望という名の殺意の
存在を考えてくれ」
「えー、でもそのうち苗字だって同じになるんだけどなー」
「変えないっていう手もあるだろ」
「でも、わたし変えたいし。ママは絶対変えるだろうから、家族の中でわたしだけが
中西のままなんてやだよ」
「いや、まあそりゃそうか……でも、今はまだやめてくれ。その時が来たら、説明するしかないだろうけど、しばらくはその、一緒に住んでいるってことも内緒で、な」
「うーん。まあ、そういうならそういうことで」
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