家族と義妹のプレリュード3

 物心がつく前から我が家に母はいなかった。でも、確かに記憶にはかすかに母親の記憶がわずかに残っており、物心がつく頃には母はてっきり死んだものだと思い込んでいた。思春期に入り、世の中のいろいろなことがわかるようになってから、母は育児放棄のために出て行ったのだということを知った。


 記憶の限りほとんど俺は父と二人で生活してきた。元々フリーランスの父は仕事を在宅で行い、家事のほとんどをしながら俺を育てた。


「あーなんか記念日か何だっけ?」


「いやな、別にそういうんじゃないだが」


「なんだよ、その言い方。なんか気持ち悪いな」


「ああ、いや……会ってもらいたい人がいるというか」


「だれに?」


「母親だよ――」その言葉を聞いた瞬間に、何をいまさらと思った。


「今更会いたくなんてないよ。俺を捨てた親だろ? 俺の家族はあんただけで十分だ」


「ああ、そういう意味じゃなくてだな……」


「なんだよ、じゃあどういう意味なんだ?」


続く言葉で、ようやく理解が追い付いた。父は昔から、一言足りない。


「――新しい、お母さんだ」


 その意味を考えるのにしばらくの時間がかかった。たぶん、二、三秒なのだろうけれど、随分長い時間がかかったという印象だ。


「――そうか、おめでとう」


「いやじゃ、ないのか」


「いやというか……もともと母親の記憶なんてないようなものだし、この年になって新しいおかあさんなんて言われても実感ないな。俺にしてみれば、新しい母というか、父の新しい妻という感じだな。だから、なにも遠慮することはない」


「一緒に住むことになるかもしれないが……」


「部屋なら空いてる。二人で住むには広すぎるくらいには」


「そうか……会ってみて、もし嫌なら別にいいんだ。無理強いはしない」


 改めて無駄に広い家を見渡す。郊外とはいえ庭付きの一戸建てに俺達親子は住んでいる。俺が生まれる前に建てたマイホームは、おそらく俺の妹や弟まで想定して建てたものだろう。実際その家に妹や弟が生まれることもなく、母親さえもいなくなった家は空き部屋だらけの無駄な家だった。


「どんな人だ?」


「かわいい人だよ」


「歓迎だ」


「あと、娘もいる。お前の妹だ」


「……悪くない」


 よくあるラブコメの妹を想像した。生意気だけどなんだかんだで兄のことが大好きな妹だ。そしてそんな都合のいい話があるわけないという気持ちもまたあった。


 週末の夕方、俺たちは町の小さな居酒屋へと出向いた。堅苦しいレストランや料亭でなくて気が楽だ。新しい母親はそういう堅苦しい店が苦手なのだという。その点だけを取って言えば気が合いそうだ。


 居酒屋の奥の掘りごたつで父と俺は隣同士並んで座った。向かい合わせならまだしも隣に並ぶというのは何か変な気分だ。週末とあって客の入りもなかなかでにぎやかだった。会話をするには少し、大きな声を出す必要があるかもしれない。借りてきた猫でいるわけにはいかないだろう。父の、今後の幸せのためにも。


 しばらくして若い女性がやって来た。


「ごめんなさい。遅くなっちゃって、娘のほうももうすぐ来ると思うから」


 俺たちの向かいに座ったその女性は、見たところ年齢は大学生から二十代半ば。

茶髪で少し化粧の厚い、いわゆるキャバ嬢っぽい印象の女性だった。


 正直なことを言えばその時点で俺の夢の一つは崩れたんだと思った。かわいい妹なんて想像ははかない。彼女の娘であれば、若気の至りでできた子供だとしてもまだまだ幼い少女だろうと。


「初めまして。あなたが蒼君ね」


「は、初めまして」


 やや化粧がケバイとはいえ、整った鼻頭と大きな瞳はそれなりに緊張を誘う。

「芹香さんだ」という父に続き「芹香です」と頭を下げる彼女に対して、またずいぶんと若い女をたぶらかして――などという言葉を用意したが、間を置かず父が言った言葉、「実は、芹香さんは俺の学生時代の同級生なんだ」という言葉。一瞬冗談なのかと思った。


 たしか父が今年で四十……いや、ありえないだろ。


「ふう……それにしても喉が渇いたわ。とりあえず、何か頼みましょ」


 メニューを開き、芹香さんはビールを、俺と父はウーロン茶を注文し、それと何となくつまみになりそうなものを数点。


飲み物が到着し、「とりあえず乾杯しましょうか」という芹香さんの言葉と同時に、遅れた彼女の娘が到着した。


芹香さんが父と同じ年であるならば、その娘もまた、俺と年が同じくらいだということは自然に考えられることだった。


茶色いキャミソールとベージュのショートパンツからむき出しになった白い四肢が長く伸び、それらは不安になるほどに細くて長い。柔らかい黒髪の揺れる表情は整いすぎている。


「遅れました。中西茉莉と言います。これからよろしくね、おにいちゃん」



まるで意地悪く嘲笑するかのように上がった口角から覗く白い歯がとても印象的だった。


 ようやく今まで茉莉の言っていた言葉の意味がつながった。それに担任もだ。俺の隣の席が空いていることに「ちょうどいい」なんて言ったのもすべて知っていたのだろう。つまり、俺だけが何も知らされていなかった。


 茉莉とは今まで何度となく話をしてきたし、芹香さんもずいぶんと社交的な性格だ。いつの間にか緊張は解け、砕けた話もできるようになった。


「それでね、蒼君さえ問題なければ、ゆくゆくはあの家に一緒に住まわせてもらおうと思っているの」


 芹香さんの言葉の言う『あの家』という言い方から、きっと何度か訪れたことがあるのだろうと推測できる。父は在宅で仕事をしているし、俺が学校に行っている間に誰かやってきていたとしても俺が知る由もないだろう。


 おそらくもうすでに住み着く準備も始めている。その手始めとしてこの町に引っ越して、俺の学校へ転入してきたのだ。


「別に、引っ越してくるならいつでもいいですよ。ほら、どうせ部屋だって余っているしさ。今のアパートだって、お金かかっているんだろうし。そのお金だって、言ってしまえばこれからはおんなじひとつの家庭の金なわけだろ。だったら節約できるところは節約すればいいと思う」


「ふふ、蒼君はまだ若いのに経済観念がしっかりしているのね」


「いや、別にそれほどでも……」


 多分経済観念がはっきりしているという話ではないのだと思う。俺は小さなころから父の背中だけを見て育ってきたし、その背中にも憧れてはいた。自分も早く父のように独立した大人になりたいと思っていたのだ。だけどそれと同時に、そんな父ですら手に入れることの叶わなかった幸せそうな家庭、というものにも憧れがあった。


 大人になったらできるだけ早いうちに家庭を築き、立派な大人になりたいと思い、高校に入るなりアルバイトも始めた。早いうちに自立できるだけのお金をためておきたかったのだ。


 それに、俺にはこれといった趣味を持ち合わせていない。ゲームもあまりやらないし、映画や音楽に関してもそれなりに興味はあるものの、世間一般で言う〝それなりに〟以上の感情は持ち合わせていない。


 父は読書が趣味で、それが昂じて職業としている。それもあるからだろうけれど、どうしても読書を趣味にしようとは思わなかった。子供のころはそれなりに読んではいたのだが、いつしかそれでは父を超えることができないと考えるようになったからだ。


 読書を趣味にすればまた、読書のせいで父にコンプレックスを感じてしまうだろうという思いがあった。


 俺は多分父を超えたかったのだろう。憧れているからこそ超えたいと思っていたんだと思う。


世間一般的に優秀なほうだと思える父に対し、同時にその父が世間一般に及ばないと考えている物。それは温かい家庭であって、だから俺は早く結婚して家庭を持ちたいと思っていたのだ。


 これといった職業を夢として持たないことが悪いとは言わせない。女子の多くが『結婚』をゴールと称したり、将来の夢に『お嫁さん』という言葉が許されることと同じように、俺は将来、立派な『父』になることが夢だった。温かい家庭を持った父親。


 しかし今。こうして父が新しい、幸せな家庭を持とうとしていることに、やはり父を超えられないという気持ちも生まれたわけだが、そんなことで俺のアイデンティティが崩壊するものでもない。


 食事をしながら、父は心配そうに俺に言う。


「それにしても蒼。お前、家に女の人がいる生活ってなかっただろ」


 父のそんな言葉を聞いてふと我に返る。恥ずかしい話、想像すらしていなかった。ひとつ屋根の下で、まだまだ若くにしか見えない芹香さんと茉莉とが家の中にいるという生活を。


 想像して、少しだけ照れくさくなる。


「あー、蒼君、今エッチな想像したでしょ」


 打ち解けるのが早い芹香さんが俺をからかってくる。


「し、してないですよ」


 こうしてみるとやはり芹香さんが四十を過ぎているようには見えない。隣に並ぶ、彼女の妹としか見えない茉莉が身を乗り出してくる。


「たぶん、一度や二度はあると思うんだよね。おにいちゃんがお風呂に入ろうとドアを開けたとき、わたしが服を脱いでいるっていう状態。なんていうんだっけ、ラッキースケベ? みたいなやつ」


「ないよ。そんなのあるわけないだろ。俺だって十分に気を付ける」


「えー、そんなのつまんないじゃん。わたしとしては、そういうことがたまにあったほうが面白いかなって思うんだけどな」


「何なら一緒にお風呂くらい入ってもいいんだよ。兄妹なんだしね、おにいちゃん」


「からかうなよ」


「紅くなってるじゃん」


 これから先もこうしてからかわれてしまうのだろうかと考えると、どうにもこそばゆくもあるけれど、むしろ楽しいのかもしれないなんて純粋に考えた。ついつい弛緩してしまう頬の筋肉を芹香さんはつんつんと指さしてとどめを刺すように言った。


「あー、なんならあんた達、結婚してもいいんだよ。血はつながってないんだからさ」


「せ、芹香さん。なにを!」


「うん、まあそれも悪くないかもしれないね」


 茉莉が冗談めかして言う。口角を上げて、真っ白な前歯を主張するように。


「おいおい、俺をからかうのはいい加減やめてくれよ」


「だってさ、そんなことわからないよ。これからどうなるかなんてさ」


 そんな茉莉の冗談に、正直悪くないとさえ思う自分がいた。

 

 ――多分俺は、こういう柔らかい家庭を、何年も何年も前から、ずっと求め続けていたのだと思う。ずっと何年も、何年も前から。

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