三、明日

 ナツが来て、あっという間に六日経った。勝手に居座った彼は、ひたすら甲斐甲斐しく英治の世話を焼き続けた。しっかり三度食事をさせられ、風呂に入れられ、清潔な部屋、ふかふかの布団を提供された英治は、少しだけまともな判断ができる人間に近づいた気がしていた。

 しかし自分の命もあと一日。期限は決まっていた。明日、自分は死ぬ。

「結局俺は、しょうもない大人として死んでいくのか。うーん、さすがにまずいな……」

 人間は死ぬ間際になればなるほど、「このままではいけない」と思うのだろうか。英治は自分の思考に笑い出しそうになった。ラスト一日になって、やっとナツの言葉の意味を飲み込む。確かに今の自分を見たところで、死んだ彼女は喜ばないだろうし、再会できたとしても愛想をつかされるだけだ。

「ともかく、立つ鳥跡を濁さず、だな」

 英治は立ち上がると、今まで放置していたダンボールに手をつける。部屋の隅にあったその箱だけは、ナツにも触らせなかった。二年間封印していたが、すべて処分しよう。中身は死んだ妻の遺品だ。これを整理する義務が自分にある。

 ナツがいない今しかチャンスはない。あいつは死神のくせにこの世界に馴染み過ぎだ。今もスーパーに行っている。

 すぐにカッターを滑らせ、ガムテープに切れ目を入れると、スケッチブックが出てくる。手に取っても、開くことはない。見てしまったら捨てられなくなるとわかっていたからだ。 

 中身をどんどん仕分けていく。『指定ゴミ袋』と書かれた半透明の袋を見て、ため息が出る。後生大事にしまっていた遺品は、自分が見限ってしまえばただの『ゴミ』になってしまうのだ。別れを惜しむように、愛用していたボールペンに刻まれた名前に触れた。

 妻の田島雪見は、英治のチームのデザイナーだった。同じ会社に勤め、恋に落ちたが、大っぴらに付き合うのははばかられた。仕事がうまく進まなくなるからと雪見が言ったのだ。すべては昇進したばかりの自分を気遣ってのこと。だからこそ結婚報告をしたときは、周囲すべての人間が驚いていた。その様子を楽し気に眺めていた雪見だったが、幸せは一瞬で崩壊した。

 新婚旅行なんて行かなければよかったんだ。何度も後悔したが、意味などなかった。一週間ほど休みをもらって出かけた海外。初めての土地で交通事故に遭った雪見は、生きてこの部屋に戻ることはなかった。

 幸せの絶頂から不幸のどん底に落ちた英治は、当然のように仕事など手につかなくなった。出社したところで集中できない。会社側や上司は、そんな英治をかなり手厚く 支えてくれた。出社できなくても、在宅で仕事を続けてくれればいいと。それでも無理だった。頑張ろうとしたところで、部屋にいる限り死んだ妻の思い出ばかりが蘇って。だからと言って、死ぬ勇気さえなかった。抜け殻のように毎日を過ごしていたとき、突然現れたのがナツだ。

 死神のおかげで死ぬ覚悟ができたなんて皮肉すぎる。苦笑しながら再びダンボールを漁っていると、固い感触がした。雪見の使っていたスマホだ。

「捨てる前に、データを抜いたほうがいいな。社内秘のものがあるかもしれないし」

 自分たちを支えてくれた会社に、迷惑をかけるわけにはいかない。カードを取り出すと、パソコンで中身を確認する。その際、どうしても画像フォルダに目が行ってしまった。

 少しだけ。画像を開くと社内で撮ったものがあった。

「懐かしいな」

 大きなプロジェクト終了の記念だったなと思い返す。中心にいる雪見と、彼女と仲の良かった同僚たち。部署のメンバーの中に自分も混ざっていた。

「……え?」

 笑顔が浮かんだのは一瞬。すぐに自分の目を疑い、口を押える。こんなことがあり得るのか? 画像の隅に写っていたのは、間違いなく――。

「ナツ?」

 ガラスで仕切られた会議室の外にいたのは、六日間毎日顔を合わせていた死神だ。首には社員カードまでぶら下がっている。英治はカード部分を拡大した。

「『佐藤名都』? こいつ……」

「ただいまー!」

 ドアが開くと、エコバックをぶら下げたナツに飛びついた。

「お前、俺を騙したな! 何が死神だ! 正真正銘、人間じゃねぇか!」

 ナツは驚いた表情を見せたが、起動しているパソコンに気がつくと鼻で笑った。

「その台詞、今更すぎ。死神なんているわけないじゃん」

「……お前は本当に何者だ?」

 不安や動揺の混じった瞳でナツを見つめる。もちろん不審者であることは変わらないだろう。だけど六日間、このどうしようもない自分の世話をしてくれたのは彼だ。 

何のために? 知り合いでもなんでもない、ただの三十過ぎた無職の男と一緒に暮らす目的がわからない。金か? だったら自分が寝ている隙にいくらでも持ち出せたはずだ。それ以外に何がある? すべてが謎すぎる。

 静かにナツは口を開いた。

「……オレ、ずっとあんたのこと見てたんだ」

 襟元をつかんでいた手を外すと、英治を引き寄せて首筋にキスをした。

「あんたが好きで仕方がなかった」

「何を言って……」

「そりゃ、びっくりするよね。一方的に想ってただけだし。だからこそ辛かった。タイミングがなくて、ずっと声すらかけられなかったんだよ?」

 ナツはポケットから名刺入れを取り出した。嫌というほど目にしたデザイン。佐藤名都。上には小さく『デザイナー』の表記。『佐藤』だけならピンと来なかったが、『デザイナーの佐藤』だったら話が別だ。

「お前、津田チームの?」

 津田ディレクター率いる『津田チーム』と英治は、何度も社内コンペで競い合った仲だった。英治が特に注目していたのは、チームの中にいるデザイナーが提出してくる作品。この美しいデザインをどんな人間が作っているのか。気にはしていたが、津田チームとはフロアが違った上、自分自身も多忙だったので確認することはなかった。

「毎回毎回すげぇデザインしてたの、お前だったのか」

「まさか英治さんが、自分のチームのデザイナーと結婚するとは思わなかった。話を聞いたときはショックだったよ。だってさ、先輩よりもオレのほうがずーっと、英治さんのこと見てたんだから」

「……絶対にない。優秀な若手が俺を見ていた? しかも恋愛感情で? どうかしてる」

「英治さんはオレの憧れだった。……あんたさ、いつかみんなが帰ったあと、デスクで眠ってたでしょ? 普段眉間にしわ寄せながらすごく頑張ってるのに、寝顔だけは子どもみたいで。憧れは簡単に恋に変わった。純粋にそばに居たかったんだ。いつかはもっと近くに行きたいと願ったりもした。それなのに……」

 食材の入ったバッグを床に落とすと、強引に自分を更生させてくれた自称・死神の青年は、顔を伏せた。

「先輩は本当にずるいよ。不慮の事故だったとは言え、死んだあともあんたを離してくれない。その上仕事のできない身体にして、部屋に閉じ込めた。非情な死人に対抗するためなら、オレは『死を司る神』になるしかなかったんだよ」

「……わからない」

 英治が絞り出したのは、到底ナツが納得できるような言葉ではなかった。英治自身も、自分の気持ちが把握できずにいた。

 英治の、決してきれいではない手を何度も確認する。ごつごつしていて、骨ばっている男性特有のものなのに、ナツにとっては愛おしい。しかし、その左手の薬指にはめられた結婚指輪だけがどうしても許せず、上から口づけした。

「英治さんが、先輩を今も大事に想ってるのは知ってる。だけど……ううん、だからこそ、あんたも自分の人生を大切にして欲しい。少なくてもオレは、英治さんと一緒に生きていたいの」

 ナツの真っ直ぐな瞳は、英治の心を射抜いた。それに今のは。

「なんで知ってるんだ? 俺が雪見にプロポーズしたときの言葉…… 」

「え? そうなの? じゃあ、今度はオレがあんたにプロポーズする。お願いします、オレと一緒に生きてください」

 返事はすぐに出てこなかった。死んだ妻のことは今も愛している。でも、彼女はもういない。自分に何度も言いきかせていた。死人が戻ってくることはないと。悔やみ続けたところで、立ち止まってしまうだけなのも理解している。抜け殻のようにくだらない毎日を生きるなんて、死んでしまった雪見に申し訳が立たなかった。彼女は生きていたかったはずだ。

 もし雪見が、今みたいに人生の時間を無駄遣いしていると知ったら……。自分のことを軽蔑するだろう。なんとなくわかっていたことを、事実として突きつけてくれたのは――ナツだ。

 そういうことだったのか。ナツがこの部屋に来た理由。自分の世話を焼いてくれた本当の意味。自暴自棄になっていた自分の生活を改めさせ、少しでも生きる希望を見出させるため。なんて回りくどいことをしたのだ、このストーカーは。

「英治さんは田島先輩と違う。生きてる人間でしょ。立ち止まるくらいなら、オレと前に進んでほしい。それができないなら……」

 ナツは英治の身体を抱きしめると、耳元でささやいた。

「ここに来たとき言った通り、本当に抱くから。心も身体も傷付ける。オレのこと、恨んで。殺してやるって思ってくれて構わない。なんでもいいんだよ。恨みが原動力でも、あんたが生きていてくれるならね」

「……っ!」

 首筋に噛みつかれた英治は、声を堪えた。ナツは強く歯型をつけ、今度は耳を軽く食む。舌を耳穴に挿し込まれると、ぴちゃぴちゃと聞こえるダイレクトな水音に、ぞくりとした。

 こんなこと、久々どころなんてものじゃない。雪見がいなくなってから最低限の性欲処理しかしていなかった英治には、刺激が強すぎる。かといって相手は同性。しかも自分より年下 。そんなナツにペースを乱されるのは不愉快だ。

「やめろ」

「やめない、絶対に」

「……違う。ここじゃ嫌なだけだ。床で抱かれたらおっさんは持たねぇよ。ベッドに行くぞ」

「え?」

 驚いたのはナツのほうだった。状況を理解などできるわけがない。今まで生きる気力もなく、亡くなった妻のことをひたすら大事にしていた相手だ。押しかけストーカーの自分に迫られ、拒むどころかベッドに誘うだなんて。

「あの、英治さん?」

「誤解すんな。やけになったわけじゃない。ただお前に抱かれれば、さすがに踏ん切りもつくだろ? いい加減、前に進まねぇとな」

 ――ようやく笑った。今度は雪見ではなく、ナツの力で。一気にたがが外れ、大粒の涙がこぼれ落ちる。

 不審者上等。昔制作した大鎌を持ち、怪しいマントを着て、夜中に英治の家に押し入ったのが六日前。何年も想っていた人。ようやく気持ちを伝えることができたことも嬉しかったが、何よりも暗かった顔に光が射したことに胸が震える。

「お、おい、ナツ? いきなり泣くんじゃねぇよ」

「英治さんのバカぁっ!」

「はぁっ?」

 ナツはぐすぐすと鼻水を垂らしながら、英治をさらに強く抱きしめる。

「悪いけど、今日はご飯なし! ずっと離さない! 宣言通りにめちゃくちゃにするから!」

「はぁ……お前って、ただの子どもだったんだな」

「子どもなんて言わせないけど? これからオレの想いの丈を全部ぶつける。英治さんが泣いてすがってもやめないし、抱き潰す気満々だからね? 思う存分、生きてるって実感させてやる!」

「しょうがねぇなぁ、お手柔らかに頼むぞ」

 今までにないくらい心が穏やかだった。これから年下の男に抱かれるというのに、晴れ晴れとしている。諦めの境地? 違う。ここからが新しい始まりなのだ。

 薬指にはめていた指輪をそっと外すと、英治はそれをテーブルに置いた。

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