二、二日目・朝
鳥のさえずりと朝日の眩しさで目を覚ました英治は、自分自身に唖然とした。
きちんとベッドで眠っていたこと。布団がかかっていたこと。そして鳥の声や日光に起こされたこと。すべてが二年振りだった。
昨日の夜のことを思い出す。とりあえず飲んでいたのは何となく記憶している。そう言えば、夜中に変質者が訪ねて来た気もする。
「ま、夢だろ。あんなの」
時計を確認すると、午前十時。まだ眠っていても問題はない。もう一度布団に潜り込もうとしたとき、ドアが開いた。
「おはよー、英治さん! 朝ご飯用意したから、いい加減起きて!」
「え、お前、夜中の!」
「マント脱いでるからわからないかと思ったけど、オレの顔覚えてたんだ?」
エプロン姿で 部屋に入ってきたのは、昨日の自称・死神だった。あれが夢じゃなかったとわかると、英治はベッドから立ち上がった。
「さっさと家から出て行け、この変質者!」
声を荒げようが、ナツは平然とした態度を崩さない。
「そうはいかないよ。説明したよね、オレの仕事」
昨晩の記憶をなんとか引っ張り出す。ナツは自分の魂を回収するために来た。死ぬのは一週間後で、原因は心臓発作。
「あんたが勝手に死なないように、しばらく見張らせてもらうから。そういうわけで、ご飯食べようね?」
「俺のことなんて放っておけよ!」
「文句は食べてからどうぞ。ほら、部屋から出る!」
ナツに引きずられてリビングに行くと、室内はきれいに掃除されていた。テーブルの上にはスクランブルエッグとサラダ、ヨーグルトにオレンジジュース。それにロールパンが添えられている。
「朝からこんなに食えるか!」
「そう言わないでよ。しばらくの間、カップ麺しか食べてなかったんでしょ? しかも一日一食だったんじゃないの?」
図星を指され、言い返すことができない。黙り込むと、ナツは意地悪く微笑んだ。
「オレ死神だから、そのくらいわかっちゃうんだよね。ま、いいや。はい、食べる!」
「ぐっ!」
ナツに無理やり口を開けられると、問答無用でサラダを詰め込まれる。久々のみずみずしい食感に、目を見開く。
「どう?」
「……なんとも」
「素直じゃないな。おいしいでしょ?」
「久しぶりすぎて、わかんねぇよ」
「うわ、ひど。しょうがないなぁ。これから一週間かけて、きちんと味覚も取り戻そうね」
「一週間後、死ぬのにか?」
アラーム音が聞こえた。洗濯終了の合図だ。問いかけはかき消され、ナツもあえてその質問に触れなかった。
「今日は天気がいいから、洗濯物もよく乾きそうだね!」
「……そうだな」
英治は目を伏せた。いなくなった人が、また現れたようなふわふわした感覚。それがどんなに嬉しくても、喜んではいけない。幸せは一瞬で消えてなくなる。嫌というほど味わい、絶望したじゃないか。この作ってもらった食事を、おいしいと思えること自体が奇跡なのだ。
天気のいい日は、彼女もナツと同じ台詞をつぶやいていた。彼女がベランダに出ている間に、自分が部屋の掃除をする。そんな日々が永遠に続くのだと、無謀にも信じていた。
――一週間後、自分は死ぬらしい。ナツが本当に死神かどうかはわからないが、死んで彼女と再会したとき、自分は胸を張れるのだろうか?
考え事をしながら手を動かしていただけなのに、皿はいつの間にかきれいになっていた。
「あ、全部食べてくれたんだ。ありがとね!」
洗濯物を干し終えた ナツが、子どもにするように頭をなでてくれる。食事を用意した側が、なぜ礼を言うのだろうか。頭に疑問符をつけても、ナツは何も答えずに笑顔を見せるだけだ。
「ろくな大人じゃないんだから、せめて生きる努力くらいしてよね」
「お前、本当に死神なのか?」
明らかに矛盾していた。自分の魂を回収しに来たくせに、生きる努力がどうのこうのとほざく死神がどこにいるのだろうか。英治の純粋な疑問に、ナツは案外真面目に回答してくれた。
「正真正銘の死神だよ。だから確実に言えることがある。今のあんたが死んだところで、亡くなったお嫁さんは喜ばないってこと」
「知ってるのか? 雪見のこと」
「仕事柄ね」
左手の結婚指輪。作った当初よりも指は細くなり、幸せだった痕跡が残っている。お揃いで彫った雪の結晶が目に入った 。
「あんた、精一杯生きてないよ。オレの仕事は魂を回収すること。でもね、必死に生きてきた魂しか運びたくないの。つまり、オレのプライドがあるから、あんたにも一週間まともに生きて欲しいってこと! わかった?」
生前、自分に企画書を叩きつけてきた雪見を思い出す。何度も無謀だと突っぱねても、彼女はアイデアを出し続けた。
信念というよりも執着に近かったかもしれない。自分の考えに固執しすぎているところもあっただろう。それでも彼女は努力を怠らず、成果をあげた。間近で見ていた英治の想いが尊敬から愛に変化したのは自然なことだった。
「お前もあいつと同じなのか」
英治が浮かべたのは、自分でも忘れていた笑顔だ。ナツは眉をしかめると、皿を持ってキッチンへ逃げるように移動した。
痛いほど英治の気持ちが伝わる。突きつけられたのは残酷なまでの現実。自分の想いを諦めることができなかったから、ここへやってきたのに。
「……死んだあとも英治さんを笑わせるの、田島先輩なんですか? やめてくださいよ、ホント……」
死神が涙を堪えているのも知らず、英治は薬指の飾りを眺めていた。
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