第2話 死なずの乙女
震える手を伸ばし、恐怖に打ち震える青年の頬を撫でる。
「……」
彼は表情をほんの少しも変えなかった。恐怖と憐憫を殺意で塗りつぶして、必死にこちらを殺そうと睨んでいる。彼の呼吸の音が聞こえる。荒く、押し殺すような息。
「……ろ、しても、いいわ」
貴方が私を殺すことを許すわ。仕方がないと、受け入れるわ。
でももし貴方が、私のこと、ほんの少しでも哀れだって思ってくれるのなら。
「…………す、けて……ほ……と、は、しにたくない、の」
ゼロと呼ばれた青年は目を見開く。そしてナイフが一際高く振り上げられた。死ぬのは初めてでは無いけれども、これはきっと一生忘れられない死になる。熱い血潮と、憐憫と、恐怖に彩られた、誰かの初めての殺人、その被害者になる栄誉。
なんだかそれってとってもロマンチックなことのように思えるわね、なんて思った。
がきん、と硬い音がして、耳の横にナイフが振り下ろされたことに気がついた。それは少女の命を奪う事どころか、傷付けることさえなかった。
「…………クソ」
彼の手が傷口に当てられる。流れ込んでくる温もりが、ひどく心地よい。傷口が修復されていく。頭の中を何故が渦巻く。だって、殺してもいいって、貴方のために死んでもいいって、私、許したのに。力の入らない泥人形のような体を持ち上げられる。どこまでも深い黒い髪に、まるで海のような青い瞳の青年はふいっと視線をこちらから外した。
「…………死にたくないんだろ」
その声はぶっきらぼうなのに、愛情にまみれていた。
「死ぬなよ」
ああ、この人はきっと、この優しさでもう何回も繰り返し損をするし、傷付いてきたんだ。そう分かった。解って、しまった。それでも心地よい体温と、安堵しても平気だと理解し訪れた眠気に抗うこともできずに少女は瞼を下ろした。
――ぱちぱちと、何かが弾ける音がする。
次に少女の意識を揺さぶったのは、そんな音だった。火が弾ける音だ。意識が次第にはっきりとしてくる。死んでいたのだろうか。いや、そういう訳ではない。死んで生き返る時はもっと何もかもが鮮やかに感じるものだ。これはどっちかと言うと眠りからの目覚めに近い。
……眠り?
「目が覚めたのか」
かけられた声に目を見開いた。黒い髪。柔らかな青い目。見たことがない。知らない、人間。脳の片隅まで掘り起こすが知らない相手だ。
「大丈夫か? 傷口は塞がったが」
「っ!!」
腕を伸ばす。青年は驚いたように目を丸くした。だがそれでも僅かに自分の方が早い。青年の腰からナイフを引き抜いて、その首に突きつける。
「……安静にしておいてくれというつもりだった」
「そうなの? 嘘にしてはずいぶん上手ね。まるで本音のようだわ。でもそんな言葉で私の信用を買えると思ってる訳……?」
「ゼロ! 伏せなさい!!」
次の瞬間、扉が開かれ無数の風の弾丸がとんできた。少女は軽やかにそれを避けて床に着地する。現れたエメラルドの薄いベールの服をまとっている男は人差し指をこちらに向けている。
「ゼロ、無事?」
「無事だがジェイ、お前はやりすぎだ」
「知らないわよ。殺しに来てるのはあっちでしょ」
「ジェイ」
……妖精だ。
人格が宿った自然そのもの。その中でも彼女は風を司る存在なのだろう。そんな存在が人差し指をこちらに向けているのは、銃口を向けられているのに等しい。
少女は口を開く。
「貴方達が何を考えてるのかさっぱりだけど、私にこんなことで恩を売れるとは思わない事ね。私はどんなことが原因でも決して死んだりしないわ。だから、私は、決して貴方達の思い通りにしたりなんてしない。この贖罪の力を貴方達の思う通りに使ったりしない。そんなことになるくらいなら――」
「ッ!」
ナイフを己の首に向ける。手が震える。
「――私は、私の意思を守るために死んでやる」
「アンタ……!!」
「ジェイ、待て!! それにお前もだ! 〈不凋花の贄姫〉ユリシス!」
少女は――ユリシスは、動きを止めた。その花のような薄紅の瞳が青年を捉える。
「…………」
「お前だろう。贖罪の救済の咎と宿命を背負った少女。人類を救うもの。〈不凋花の贄姫〉……ユリシス・アスポデロス。ああ、不凋花の加護があるから不死なのか」
「…………何故、私の真名を、貴方ごときが知ってるのよ」
「なんだ、お前、自分の比翼も認識できないほど弱っているのか。良いだろう。確かにはじめましての挨拶と自己紹介は大切だ……誠に遺憾ながらな」
青年は立ち上がり手を差し伸べた。反対の手を広げ、武具を持っていないことを示す。
「俺はゼロ――ゼロ・ライル。知恵を追い求めた竜達が築いた仙郷〈琰月閣〉で生まれた仙竜……の形を与えられた星霊だ。聖剣の打ち手。いずれ〈原星の竜〉と呼ばれることになる仙竜。そしてこっちは妖精大家のジェイ。ジェイ=クララ・ベラだ」
ゼロの声にユリシスはナイフを下ろした。考え込むように目を一瞬、とざす。
「……ゼロ。聞いたことがあるわ。貴方に会いに行きなさいと、遠い昔誰かに言われたことがあるのを、ええ、確かに覚えているわ。貴方がそのゼロなのね」
彼女は頷くとナイフを少し考えてベッドの上に置いた。
「貴方の言ったことはあってるわ。私はユリシス。ユリシス・アスポデロス。不凋花の贄姫と呼ばれてるの。ところで挨拶ってどうしたらいいの? この手は何? どうするのが正解かしら」
ジェイとゼロはその言葉に顔を見合せた。
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