第5話

 クジラ雲は雲のアーチの前でゆっくりと停止した。

 遂にたどり着いた。ここがクジラの国なのね。祥子は浮き立つような気分になった。

「少し待ってて下さいね。ゲートを開けてきます」

 鯨谷はそう言い残すとふわっと雲から舞い降りてアーチへと向かう。自分もあんなふうに出来るだろうか。

「私達も降りましょう」

 心配だったが鯨波に手を引かれ、祥子は地上にふわりと着地した。慣れないから少し足元がおぼつかない。

「鯨谷さんがゲートを開けてくれます。開きっぱなしだと大変ですからね」

 ガチャガチャとゲートから音がする。

 そうなんだあと祥子は思う。

 ガチャっと開錠される音がゲートからした。遂にその扉が、クジラの国へと続く夢の扉が開かれた。


 *


「そこまでだ!」

 突然の大声に祥子は身を固くした。

 声のする方を見ると二人の男が立っていた。背後には白黒のクジラがいる。

 さっきまでの幸福感が感じられない、突き刺すような男の鋭い視線。

「そこまでだ、松井一哉まついかずや。その人を放せ」

 松井一哉? 何を言っているんだろうこの人は。

「それとも鯨波海と呼んだ方がいいかな? 『クジラの国』じゃそんな洒落た名前を名乗ってるそうじゃないか」

 祥子は思わず鯨波の顔を見る。先ほどまでの落ち着きにやや翳りがあるように見える。

「警察ですか。そんな怖い顔をしないで下さい。何かご用でしょうか?」

「捜査令状を持って来た。ガサ入れさせてもらう」

「令状? 何の権限があって……」

「心当たりならあるだろう? こそこそしていれば良かったが動きが目立ちすぎたな松井。小田原は完全に目を覚ましたぞ。覚えてないか、先月ここを抜け出した信者、いやお前流に言えば住人かな。それと桜井加奈子さくらいかなこもこちら側に付いている、それから——」

「鯨谷さん‼︎」

 鯨波はゲートに向かい大声を上げる。もはや冷静さは失われて人が変わったようだ。

「神崎さん‼︎」

 ゲートから出てきた鯨谷はそう叫んだ。隣には一人の女性が付き従っている。

「松井、あいつは鯨谷と名乗っているが、本名は山岡といってな、我々捜査一課の人間で囮捜査をしてもらっていた」

「馬鹿な」鯨波は小さく呟いた。

「彼女はOLの桜井加奈子さんだな。我々が探していた十五人目の失踪者だ。桜井さん、例のモノを押さえてくれたそうですね?」

「はい、これです」

 そう言うと桜井は手に持っていた袋を掲げる。中身は乾燥した植物のようだった。

「あれは大麻だな? 動かぬ証拠だ。我々は今日あれを押さえに来た」

 祥子は何が展開されているのか訳がわからなかった。呆気に取られて鯨波を見ると、優しかった瞳は怒りに震えてるようだった。

「松井、お前のことも調べさせてもらったぞ。人の心の内が読めるらしいな。そして視線を合わすことで軽い催眠状態に誘導するとか」

「よく調べましたね」

「優秀な部下のおかげさ。最初は信じられなかったよ。いや、正直今も半信半疑なんだがな。

 お前は学生時代、その能力を使って友達の相談に乗ったりしてあげてたそうじゃないか。人の心の内を読み、共感してあげることが出来る。皆、お前を優しい少年だったと言っていた。しかし、特異な能力は常人からしたら恐ろしく映るものだ。お前は次第に気味悪がられるようになった。親しかった友人、教師達から好奇の目で見られるようになった。

 お前は学校をドロップアウトし、家を出るとこんな寂れた町の空き家を買い取り組織の根城にした。資金は得意の催眠術で調達でもした。そうだな?」

 鯨波は神崎に視線を飛ばす。神崎は目を逸らすことはしなかった。いいだろう。かかってこい。この色男の見透かすような視線に挑む気になった。

「お前は自分を裏切らない友人が欲しかった。そうして作り上げたのが『クジラの国』とかいう組織だ。宗教団体といったらお前は怒るかな?」

「違う、ここは僕の国だ」

「まあそう怒るな。最初は数人と共同生活を送っているだけだったようだが、お前は欲を出して組織を大きくしようとした。それこそ一つの国を作り上げようと夢を見たんだ。しかし、お前一人の催眠術じゃそう上手くはいかない。小田原のように催眠術が解けてしまい、お前の本名をうっかり知ってしまう人間も出てきた。間が悪いことに建物の扉も開いていて脱走を許してしまった」

「やたら厳重にロックされてますよ」

 山岡が扉を指差して言った。

「失踪者は十九人に上った。仮にこれが全員お前の手によるものならここに繋ぎ止めるのは一苦労だろう。全員に催眠術をかけ続けていても埒があかない。そこでお前は洗脳を強固なものにするため大麻に手を出した。しかし、桜井さんのように疑問を抱く者が出てきたのさ。その結果がこれだ」

 神崎は捜査令状を鯨波、いや松井に突き出した。

「刑事さん、あなた催眠が効かないタイプですね」

「そりゃ残念だったな。俺はガードが堅い真面目野郎で有名なんだ」

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