透明な棺②

 リモート環境が整うまでの期間限定というなんとも微妙な理由で異動させられた先は、引っ越し前に思っていたよりははるかに暮らしやすい地方都市だった。

 自家用車が必須だの言われるような場所でない限り、徒歩圏内で飯を食える店さえ充実していれば十分ではある。その上家賃が会社持ちとなれば、住む場所なんざどうだっていいような気がしてくるんだから不思議なものだ。

 いずれは地元に戻ってくれだの親は言うが、今時後継ぎだのなんだの言うのもよく意味の分かんねえ話だと思う。俺としちゃ、食いっぱぐれなく勤めていける、そこそこホワイトな職場の方が大事だ。

 そんなわけで放り込まれた縁故も何もない土地で懐かしい顔を見たとなったら、誰だって驚くに決まっていた。

 鈴木華凛かりん。佐藤姓に次いで多い苗字ながら、名前の方は俺らの世代じゃ少々目立っていた。小柄で無口、おそらくは気も弱くて、それから確か片親だったか。

 お世辞にも裕福とは言えない家庭だったのだろう。薄汚れた服に手入れの行き届かない髪、教室の片隅で一人ぼんやりしているクラスメイト。華凛は一部の生徒にとっては格好のいじめのターゲットだった。面白半分に帰路をつけた誰かが目撃した母親が痩せぎすだったとかで、かりんとうから生まれた華凛だの、随分なからかわれようをしていたのを覚えている。

 そのせいかどうかは分からないが、華凛は確か不登校気味だった。高学年に上がる前に転校したような気がするが、そのあたりは断言できないほどの曖昧な記憶しかない。

 いつしか姿を見ることもなくなった華凛の存在は記憶からも抜け落ちていたはずだったのに、十数年を経た今になって、俺は一目で彼女だと気が付いたのだった。

 昼休憩に立ち寄りやすい立地であるばかりか、値段のわりに量が多くてうまい定食屋。曜日や時間帯にもよるのだろうが、おそらくは常連客が多い店。ホール担当らしい彼女はすらりと細身で、顔立ちには確かにあの頃の面影がある。そのくせ表情や声色は弾けるほどに明るくて、別人のように思える瞬間もある。

 とは言え話しかけるつもりはなかった。仲が良かったわけじゃない、それどこかまともに話した記憶すらない。いつの間に転校したのかすら覚えていないような元クラスメイトに話しかけられたところで気持ち悪いだけだろう。

 だから俺は店に通うべきじゃなかったし、たまに訪ねるにしたって同一人物かどうかを気にしてチラチラと見るような真似をするべきじゃなかった。言われるまでもなく自明のことだ。それなのに自重できなかったのは、慣れない環境で実は人恋しくなっていたせいなのかもしれない。

 理由がどうだろうと、俺は彼女に関わるべきじゃなかった。おそらくは、彼女自身のために。

 だが、普段より少しばかり店が空いていたある日、話しかけてきたのは彼女の方だった。


 コト、と小さく乾いた音を立てたお冷につられてスマホから目線を上げる。さっさと注文をすませちまおうと見上げたら、もの言いたげな彼女の視線に絡めとられた。なぜか分からないが、その時俺は確かにそう感じていた。

「他人の空似。……だと思ってる?」

 ホールを忙しく動き回っている時に比べて心なしか低く、ぼそぼそと囁くような声。

 快活な笑顔は影を潜め、表情は無に近く。それは記憶の奥深くに眠る、教室の片隅に無言でたたずむ華凛そのもののように見えた。

 刹那、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚え、応じるまでの一呼吸を制したのは彼女だった。

「あたしね。子供の頃のことを覚えてないの」

 俺はなんて答えていいのか分からなかった。当たり前だ。個人的に会話をしたことがあったわけでもない店員に唐突に告白されたのだから。

 厨房から誰かの──おそらくは店長の声が聞こえて、彼女は振り返った。

「戻らなきゃ。じゃあね」

 再び俺を向いたのは柔らかな笑顔で、俺は奇妙なほどに安堵する。おかげで、彼女が立ち去る前に声が出た。

「あの、鈴木?……俺のことは覚えて……?」

「ううん、ヤマかけただけ。そんな感じするなぁって」

 彼女はあっけらかんとした口調で答え、厨房へと引き返していった。彼女の戻りを待つようにカウンターから顔を出した店長らしき男はほっとしたような顔で口を開く。

「あぁよかった、。戻らないから何かあったかと」

 俺は男の声に耳を疑って二人を見たが、二人はすでに厨房へと引っ込んだ後だった。

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