第三話 忍び寄る奴らの影
十月二十日午後四時三十分。
順調に作業を進めていると、次第に外が騒がしくなってきた。
救急車のサイレンがしたかと思えば、遠くで車の衝突する音や人々の悲鳴が聞こえるようになってきた。
閑静な住宅街にしては珍しいことだ。こんな状況でもなければ祭りでもあるのかと勘違いしていたことだろう。本格的に感染が広がってきたということだろうか。
さて、この辺りで現在の俺の服装を簡単に紹介しておこう。
上から順に、ニット帽、透明のゴーグル、マスク、厚手の革ジャン、バッティング手袋、工事現場用ワークパンツ、安全靴だ。何よりも機能性を重視している。
まずニット帽だが、これは深く被ることにより耳と背面の首筋をカバーすることができる。
ゾンビに本気で噛みつかれた場合は致命的だが、そうなる前に素早く身体を屈めることで帽子が脱げるはずだ。
つまり背後を取られても、一度目の噛みつきは未然に防げる可能性が高まる。
工事用のヘルメットも魅力的だったが、首まではカバーできない上に動きも制限されるため、泣く泣く見送ることにした。フルフェイスのヘルメットも防御力こそ高いが、視界が狭まるので実用的とは言えないだろう。
次に透明のゴーグルだが、これはゾンビの返り血から眼を保護するためだ。感染判定がシビアだった某ゾンビ映画では、死体の血を一滴眼に浴びただけで感染するという悲劇まで起きた。明確な感染経路が判明するまでは用心するに越したことはないだろう。
マスクもゴーグルと同様の理由だ。気がついたら口から血が入ってゾンビになりました、ではたまったものではない。
感染が空気によるものだった場合、気休め程度にもなるはずだ。
厚手の革ジャンは言わずもがな防御力が高い。リミッターの外れたゾンビの咬筋力でも、歯が頑丈な繊維を破って直接皮膚にまで達することはまずないだろう。また、外で野宿をする羽目になった場合でも、良い掛け布団の代わりになる。
野球のバッティング用手袋は、爪から血の侵入を防ぐのと皮膚の防護が目的だ。素手でゾンビをぶん殴ったらゾンビの歯に当たって感染しました、では悔やんでも悔やみきれない。軍手ではどうしても指先の動きが悪くなるので、何か良い物はないかと探した結果、このバッティング手袋に行き着いた。
工事現場用のワークパンツは、その洗練された機能美に惹かれて導入した。
耐久力ならジーンズの方が良いのだろうが、ジーンズでは股関節の可動に限界がある。
通信空手仕込みの上段蹴りを何種類か繰り出せる俺には、ワークパンツの方が都合が良い。そしてワークパンツには収納ポケットも充実しているので、ちょっとした小物を入れるのにももってこいだ。
ついでに俺は、大工や電気工事士がよく腰に巻いている道具入れも装備している。中にはゾンビや人間と揉み合いになった際にも容易に取り出せる位置にあるナイフや、解錠用のピッキングツール、最低限の食料も含まれている。
仮に自分の身体一つで外の世界に放り出される事態になったとしても、物資が何も得られずとも一週間程度は活動が可能だ。
最後に安全靴だが、頑丈なつま先と鍛え上げた俺の蹴りで、ゾンビだけではなく、いざという時の対人戦でも絶大な威力が期待できるだろう。
殺傷力の高そうな陸上競技用のスパイクと最後まで迷ったが、スパイクは長期間の活動には向かないので断腸の思いで見送ることにした。
十月二十日午後四時四十分。
秋の日はつるべ落としというが、本当に早い。あっという間に日没が迫ってきた。
本日の作業はこの辺りでいいだろう。
壁の上から降りて家の中へと戻ろうとしたその時だ。
「あぁぁ……うぅぅう……」
くぐもった呻き声が近くから聞こえてきた。
馬鹿な。もう来たのか。
俺は恐る恐る声がした方向を見た。
「うぅぅう……」
目に生気の欠片もない中年の男が一人、外を彷徨っていた。
フラフラとおぼつかない足取りで、口はだらしなく開いている。
初めて生で見るゾンビだった。
(ついに来た……!)
俺は震えていた。
ビビったのではない。武者震いというやつだ。
落ち着け。冷静になれ。まずあれは本当にゾンビなのか?
たまにああいう危ない人間だっているぞ。
俺は男の姿を今一度よく観察した。
「いや、どう見てもゾンビだな」
男の着ていた白いシャツは血で染まっていた。よく見ると腹も裂けており、腸が飛び出ている。
そしてもう疑いようもないのだが、男は俺の姿を見るなり腕をだらんと前方に伸ばしながら緩やかにこちらへと向かってきた。
走るタイプのゾンビではなかったのが幸いだ。
男はやがて呻きながら外壁にぶつかり、上にいる俺を捕食しようと手を伸ばしてきたが、外側に設置した有刺鉄線にすら届かなかった。
わが家の自慢の壁はビクともしていない。このまま放っておいても害はないだろう。
家に閉じ籠もって一晩もすればどこかへ行くかもしれない。
そしてまだ情報が出揃っていない現時点での無用な戦闘行為は避けるべきだ。
しかし……。
(相手は夢にまで見たゾンビだぞ……)
理屈だけで衝動を抑えるには俺はまだ若すぎたようだ。
「何をしたっていいんですよ」
完全にイッてしまった目で俺が呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます