第一章 ひきこもり王国の隆盛
第一話 審判の日
十月二十日午後二時。
「がぁあああああぁあーーッッッ!」
カチャカチャと鳴る筋トレ器具の規則正しい動きとともに俺の吐息が漏れた。
ひきこもりのご多分に漏れず、夜に強く朝に弱い俺はこの時間に目を覚まして日課の筋トレを始めた。
筋トレは歯磨きと似たようなもので、習慣化してしまえば怠るのが気持ち悪くなる。これをやらなければ俺の一日は始まらない。
十月二十日午後三時。
トレーニングを終えた俺は床に耳を当てて、家族の気配がないことを確認してから部屋を出た。
飢えた動物のようにプロテインを求めて一階のリビングへと降りる。
リビングに着くと、テーブルの中央に置いてあった一枚のメモが目に入った。筆跡を見るに書いたのは母親だ。
「誠也へ。家族で海外旅行に行くのでしばらく留守にします」
明け方に下で物音がすると思ったら、どうやら旅行の準備をしていたらしい。
そんなことよりも俺は家族の一員じゃなかったのか。
まぁ、学校にも行かずに年中部屋にひきこもって怪しいことをしている息子なんて、もう家族でも何でもないのかもしれない。こうしてタダ飯を食わせてもらっているだけでも感謝するべきだろう。
目当てのプロテインを摂取すると機嫌が良くなったので、俺はソファに座ってテレビを点けた。
そこで真っ先に飛び込んできたのは、フィクションの世界でよく目にした光景だった。
「繰り返します! 人が人を襲っています!」
必死の形相をしたリポーターが叫んでいる。
何だ、これは。悲鳴を上げて逃げ惑う人々。
そしてそれを襲い貪り喰う者たち。まさか……。
「何をするんだ! 離せ! 離……ぎぃぃぃいやぁぁぁああああーーーッッ!」
そのまさかだった。生気を失った、どうみてもゾンビにしか見えない男に首筋を噛まれ、リポーターが絶叫している。
現地カメラの映像が乱れてスタジオに戻ると、引きつった表情のアナウンサーたちの姿が見えた。
程なくして「しばらくお待ちください」という画面に切り替わった。どう考えても放送事故だ。
急いで他局の番組へとチャンネルを変えてみたが、いずれも緊急テロップとともに惨劇の様子が映し出されている。
俺の頭が急速に目覚めてゆき、考えるよりも先にソファから立ち上がった。
とうとうこの日がやってきたのだ。生ける屍共が徘徊するこの日が。
「きたきたきたきたゾンビがキタァー!」
俺は思わず奇声を上げた。
落ち着け。まずは冷静に状況の把握だ。
すぐに窓を開けて周囲の様子を窺った。
今のところ特に目立った音や悲鳴も聞こえない。まだ準備をする時間は充分にあるだろう。
俺は自室へと舞い戻った。対ゾンビ用の装備を整える必要がある。
「街がゾンビで溢れ返ったらホームセンターに行け」というのは、インターネットのゾンビ映画談義でよく聞く話だ。
なるほど、確かにホームセンターには武器になりそうな物や使える物資がたくさん置いてある。だが、俺に言わせれば事が起こってから店に向かっているようでは遅い。
道中に油断が一切できないのはもちろんのこと、店に着いてからも危険が伴う。そう、物資を求める人間同士の争いだ。
人間が考えることなど大抵は似通っているので、店には多くの人間が殺到することだろう。それが騒動の初期段階となれば尚更だ。最悪の場合ゾンビではなく人に殺されるかもしれない。
「本当に恐ろしいのはゾンビよりも人間である」というのは、ゾンビ映画では普遍のテーマの一つだ。
人間、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれたら理性など雲の彼方に吹っ飛ぶ。
もちろん、極限状況下でも理性的で立派な人間は一定数存在するかもしれないが、そう期待できるものではない。だからこそ食料や武器などは事前に用意して然るべきなのである。
昔の人は偉いもので「備えあれば憂いなし」という言葉を残したが、まさしくその通りだ。
ここで二階にある八畳の自室を簡単に紹介しよう。
まず部屋に入って右手の壁には、鉈、金属バット、ハンマーなど、日本にいながらでも入手可能な得物が一通り揃っている。購入に特別な許可が必要な物は、職人の祖父を通して横流しまでしてもらった。
部屋の右奥にある大きな棚には、ゾンビの研究用に取り揃えた映画のDVDが三百本ほど並んでおり、ゾンビを撃退するアクションゲームソフト数十本に、サバイバルに役立つ書籍も揃っている。
俺が何かの間違いで犯罪に走っていたなら、きっとマスコミは『猟奇的な少年の心の闇』と題して、喜んでこの部屋を紹介していたことだろう。
部屋の中央手前には、五年間苦楽を共にした筋トレグッズが無造作に転がっている。
この五年間で徹底的に身体を鍛えた甲斐もあって、身長は百七十二センチと平均的ながら体重は八十五キロにまでなった。
一見すると肥満体型だが、これでも体脂肪率は十台前半を維持している。
筋肉で盛り上がった両腕はベンチプレスで百四十キロを持ち上げ、左右の握力はそれぞれ七十キロを超えている。筋肉は裏切らないというのは本当だ。
そして俺は独学ながら格闘技の鍛錬にも余念がなかった。
正直、その辺の優男程度なら三人ぐらいまとめて葬れる自信はある。それだけの鍛錬を積んできたという自負はあった。唯一の懸念は実戦経験の不足だが、それは今後場数を踏んでいくしかないだろう。
部屋の奥には、ソファとパソコン用のデスクがある。
家族にすら言っていないが、俺は家の正面にある出入り口用のシャッターを始め、外の合計四カ所に極小の防犯カメラを設置している。これでパソコンのモニターを通じて、二十四時間外の様子が確認できるわけだ。
部屋の左側には缶詰や乾パンを中心に、一年分の食料と飲料水が詰まったダンボールが積み上がっている。おかげで寝る場所はいつもソファだが、背に腹は代えられないだろう。
また、栽培用の野菜の種も一通り用意している。食料が尽きる前に自宅の庭で家庭菜園を始めるつもりだった。
さて、この充実した環境でいよいよこれから本格的に生き延びるための闘いが始まるわけだが、まず何よりも重要になってくるのが情報だ。情報がないうちは迂闊に動くことはできない。
現時点での感染者と生存者の数はどのぐらいか。最寄りの避難所はどこにあるのか。警察と自衛隊はどこまで動いているのか。感染経路は空気なのか血液なのか。ゾンビは歩くタイプか走るタイプか。ゾンビの動きは生前の身体能力に依存するのか否か。弱点はセオリー通り頭部なのか。ライフラインはいつまで繋がるのか。肝心なそれらの情報がまだまだ不足していた。
なぁに、これから時間は腐るほどある。
俺は手早く着替えを済ませた後、満面の笑みを浮かべながらパソコンの前に座った。
ようやく、俺の人生が始まった気がした。
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