ガレージまで降りてゆく。階段は細くまっすぐに伸び、壁には直己が自作したフレームに収められて、わたしの撮った写真が飾られている。街の風景。郊外の風景。瓦礫の風景。ときおり、ポートレート。いずれもデジタルカメラによるものだ。久世と疎遠になってから、わたしもまた、自分のカメラに触れることができなくなっていた。それでも写真はつづけたい……。あのカメラショップの店主に相談したら、

 ――フィルムは値上がりする一方だからね。

 そんな云い訳まで用意してくれたうえで、デジタルカメラを薦めてくれた。重く、大きな、一眼レフ。持ち運ぶには大変、と烏滸がましくも文句を付けたところ、実を云うとね、と店主は苦笑した。

 ――きみはあの子みたいに撮るのは、向いていないと思うんだよ。

 結果として、そのアドバイスは正しかった。じっと待ちながらさっとシャッターを切るのではなく、重たいカメラをしっかり構え、見定めて、撮る。自然、風景を撮ることが多くなった。幾何学的な美しさではなく、微細な質感を撮るようにした。久世から離れてみることで、わたしは自分のスタイルを手に入れたのだ。

 もっともそうして正反対の道を追求することもまた、直己が云うように、彼の引力に捕らわれている証なのかもしれない。

 ――沈黙と饒舌。

 直己がわたしの写真を評したその言葉は、何より久世の写真に当てはまるだろう。彼がふたたびカメラを手に取ることなく、代わりにがむしゃら撮りつづけていたわたしが、いつのまにかそれで生活できるようになっていたことに、人生の不思議を感じる。あるいは、不条理と云っても良い。

「問題はやっぱり、意図じゃなかったんだ」

 ガレージの戸を開けて、直己は云った。ちょうど太陽は雲に隠れて、半地下は暗い。

「久世さんが何を考えていたのか。それはやっぱりわからない。ただ、その立場からものを見ればいいのさ。その視点からね」

「どういうこと?」

「さあ、ご覧よ。これが消失のタネを物語っている」

 連なる写真の一枚を、直己は指差した。あの夜の写真だ。透き通った像のなかで、わたしは久世を待っている。その顔は、庇に隠れて見えない。

「……まだ、わからない」

「これは、久世さんの部屋から撮られた写真だ」

「うん」

「杏理さんが映っている。しかしその顔は映っていない」

「……うん?」

「いいかい。久世さんの部屋の窓からは、杏理さんの顔が見えないんだよ?」

 息を呑んだ。

「あそこから見えないってことは……」

「そう。杏理さんからも見えない。庇が邪魔で、窓は目に映らないはずなんだ」

「えっと……、待って、どうなるの?」

 あの夜のイメージに、ひびが走る。ずれて、割れて、ばらばらになって、組み直すのに時間がかかる。

 直己はゆっくりと、優しく説明をつづける。

「杏理さんがずっと見ていたのは、久世さんの部屋の窓じゃないんだ。その一つ下、女性の部屋なんだよ。視界のいちばん上にあったその部屋を、杏理さんは久世さんの部屋だと思いこんでしまった。窓辺の人影も久世さんじゃない。一つ下の住人だ。そして、窓の灯を消して部屋を出たのは久世さんではなく、その女性だった」

「……喫茶店に入る前、わたしは最上階の窓の灯を確認した」

「うん。だからそのときはまだ、久世さんは自分の部屋にいたんだろう。でも、杏理さんが見ていたのは久世さんの部屋ではなかったから、彼はいつでも灯りを消して部屋を出ることができた。バスが一度、路地の前に停まったんだったね? おそらくそのバスに乗って、久世さんは発ってしまった」

 わたしの脳裡で、ようやく、パズルが組み直される。

 起こったのはおそらく、こういうことだ。

 街で過ごす最後の夜。久世はわたしの姿を見つける。何を思ったのか、彼は窓辺からその光景を撮る。それが、別れだ。灯りを落として、彼は部屋を出る。別の窓を見ているわたしは、そのことに気づかない。そのあいだに久世は路地へと降りる。折良くバスがやって来る。いや、わたしに見つからないよう、通りに出るタイミングは見計らっていたのだろう。

 バスに乗った彼は、喫茶店のわたしを見たかもしれない。わたしはまったく違うところを見ている。その視線で、彼はわたしが何か、勘違いしていることに気づいたかもしれない。バスが走り出す。夜の街を、駅へ向かって……。

 そして彼は、わたしに電話をかける。

「それなら、決意は揺らぎようがない。わたしはもう追いつけないから……。だから、彼は電話をかけることができた」

「ノイズが激しかったのは、バスの車内だったからだ。エンジン音が聞えていたんだろう。声が抑えられていたのも同じ理由。電話口に聞えた声は、乗車中の電話を咎められただけだよ」

 つまり、単なる勘違いだったのだ。いくつもの偶然が、それを補強した。並んだ店の高い看板が、アパートの下階を隠して階数を曖昧にしたこと。墓石のような建物の造形。階下の女性も窓辺に佇んでいたこと、そして家を出るタイミング。

「でも、そんなことが……」

「起こったんだよ。思いがけない偶然だけれど、ほかの仮説よりずっと、単純だ」

 そうだ。そこにはなんの計略も、奇策も必要ない。奇妙な消失など、最初からなかったのだ。あったのはただ、偶然のいたずらと、わたしの勘違いだけ。

 なんてことはない、見逃しだったのだ。

 ――どこを見てんだっ。

 誰かの怒鳴り声が甦る。

 現像された、ほかの写真を見る。どれも久世らしい写真だった。構図。瞬間。沈黙と饒舌。

 けれども、いまならわかった。

「……あんまり、うまくない」

 十年以上写真を撮り、見つづけて、わたしの目は変わっていた。

 かつてあんなに憧れていた久世の写真は、いま見ると決して、優れたものではなかった。カルティエ゠ブレッソンに憧れているだけの、つまらない物真似。もはや色褪せて、なんの衝撃もない。

 ――要するに、ぼくにはやっぱり、ぜんぜん才能なんか無かった。

 久世も、そのことをよく自覚していた。

「わたしは、ずっと、彼のことを見ていなかった……」

 不思議と、久世に対する幻滅はない。その代わり、自分に呆れた。わたしが惹かれていたのは久世ではなく、久世の写真でさえなく、彼を通して知った写真の世界に過ぎなかった。わたしが引き留めようとしたのは、そうして彼と歩む写真の世界であって、彼ではなかった。わたしはやはり、写真を通してでしか久世を見ることができていなかったし、その写真さえ、まともに見ることができていなかった。

 わたしはついに、おのれの人生に悩む等身大の青年と、言葉を交わすことができなかったのだ。

 ――きみはいいかげん、ぼくから逃げるべきなんだ。

 胸の奥から、苦いものが上がってくる。

「彼にとってのわたしは、刷り込みされたヒナだったのかもしれない。たまたま自分がきっかけだったから、いつまでも自分に憧れているだけの雛鳥。自分で自分に見切りをつけてもなお、いたずらに慕ってくる女」

「……また、自分を悪者にしてるね」

 直己の指が、わたしの肩に触れた。

「久世さんがそんな酷いことを考えているって、ほんとうにそう思ってる?」

「……わからない」

「うん、わからない。もちろん。内面を考えていたら袋小路だ。その代わり、何が起きたのかを考えるんだよ。写真は痕跡でしかないと久世さんは云ったそうだね。それは一面では真実だと思うよ。だってぼくらはその痕跡から、過去を知ったんだから」

 もう一度訊くよ、と直己は、今度は肩をしっかり掴んで、わたしの目を見つめた。

「久世さんは、酷い人だった? そして杏理さんも、酷い人だった?」

「……わからない」

 わたしはくり返す。……でも。

「でも、そうは思わない」

 直己は頷いた。

「過去を知って、そう信じる。それでじゅうぶんじゃないかな?」

 わたしも、頷く。

「……よし!」

 直己はぱしんと手を拍って、微笑んだ。

 雲間が切れて差した陽が、わたしの瞳を貫いた。

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