七
コーヒーを淹れ直す。二杯目は時間をかけないで、インスタントだ。ふたりでミルクと砂糖をたっぷり混ぜた。甘さが脳裡に染みるようだった。気が張っていたのかもしれない。喋りすぎて、喉も渇いていた。
直己と話したことで肩の荷が降ろせたわけではないけれど、ふたりで背負えたような気がする。
ダイニングから、明るいリビングの方に移動した。日は徐々に長くなって、午後の太陽はまだ高く、暖かい。菓子盆にクッキーも並べて、雰囲気はすっかり和らいでいる。直己は、わたしの隣に座った。
「まず、ぼくは久世さんのことを知らない。久世さんがどうして消えたのか、とりあえずその方法から考えることにしよう。そうすれば、事態は単純なトリックの話になる」
「ミステリー小説みたいに?」
「夜の街の人間消失……まるで江戸川乱歩だ。どんなトリックがあり得るだろう? 確認だけれど、見間違いじゃないんだよね?」
「うん。メールを読んでいるときも、窓からは目を離さなかった。ずっと窓を見ていた」
「うん、うん……。でもそれこそが、見落としを生んだのかもしれない。杏理さんが見ていたのは、窓に映る久世さんの影だけだ。たとえば、窓のそばに等身大の人形とか、人型の衝立のようなものを立てたとしたらどうだろう? 張り込みされているとわかった久世さんは、そうやって杏理さんの目を惹きつけた……」
「影は動いてた。それも、不規則に。あれはぜったい、人形なんかじゃなかった」
わたしは窓の灯を見つめていたのだ。たとえ人形や衝立ではなくロボットだったとしても、わたしはそれに気づいただろう。あの影は間違いなく、人間だった。
「それに、久世の部屋には何も残っていなかった。人形が置かれていたとしても、それはどこに消えたの?」
「事前にそんなもの、用意できないだろうしね。じゃあ、これは却下だ」
うーん、とうなって直己はソファーにもたれかかる。わたしは、クッキーを一枚囓る。
「あの夜、久世はあらかじめ準備できなかったはず。窓からわたしを見て、電話をかけて……、その場で使えるものを使って、逃げた」
「アパートからの抜け道はないのかな? 窓は一箇所だけだったの?」
「角部屋だったけど、窓はひとつだけ。どの部屋も同じつくり。廊下は各階にまっすぐ一本、階段もひとつだけ。出口の先は袋小路……」
「行き止まりになっているのは道だけだろう? ほかの建物に入るとか」
「云ったでしょ、周辺は捜したの」
「窓からパラグライダーで……」
「……真面目に考えるのはもうお終い?」
「いたって真面目さ。どんな奇策を弄する人間も、意図は真面目なんだよ」
そう云って、直己はクッキーを手に取った。先に割ってから、口に放りこむ。
「そう、意図だ……。やっぱり、意図の話になってしまう。方法よりも、その理由の話に……」
「なぜ逃げたか?」
「というよりも〝なぜ消えたか?〟。杏理さんの目の前から消える方法を何かしら即興で考えついたとして、そんなことをする理由がどこにあったか。ぼくだったらわざわざそんな奇策を採らない。どこかに隠れる。そして見つかる」
「じゃあ、わたしが見つけられなかっただけ?」
「その場合、どこに隠れたのか……。杏理さんが、捜さなかった場所……」
「そして、当たり前に隠れられる場所」
わたしは云って、それから気づいた。
「……ほかの部屋」
「え?」
「聞き間違いかと思っていたけど、あのときの電話口から、声が聞こえた」
「ああ、云っていたね」
――電話……、やめて……。
あれは誰だったのだろう?
「いま思えば、女性の声だった気がする」
「ほんとに?」
「確信はないけれど……、でもたとえばそれが、わたしが鉢合わせたあの女性だったとしたら?」
直己は眉根を寄せて、腕を組む。
「その女性は、嘘をついていると?」
「しばらくのあいだ、久世を匿っていたのかもしれない」
そうだ、これなら説明がつく。ふたりはぐるだった……。
途端に、脳裡でひとつの絵が組み上がる。通じあっているふたり。別れの挨拶を交わすふたり。けれども発とうとする久世の前に、わたしが現われる。久世はいったん女性の部屋に隠れて、わたしをやり過ごす。
「ふたりは邪魔だった。わたしのことが。それで……」
「待った」
自分で描いた絵に呑まれそうになるわたしを止めて、直己は首を振った。
「落ち着いて考えよう。杏理さんはそんな真相、信じられる?」
「……それは」
とても、信じられない。いくらわたしと彼がカメラを通してだけの付き合いだったとは云え、親密な友人関係くらいは把握していた。それに、わたしの知っている久世は、誰かと共謀して人を騙すような小ずるさを持たない。そんなことができるなら、わたしに待ち伏せされる前に、もっとうまく立ち回っていただろう。
「何より、ぼくがその女性の立場だったら、別れの瞬間を台無しにしてまで、そんな計画に協力はしないな。彼女には、久世さんの消失マジックに手を貸す義理なんてない」
ごもっとも。わたしは肩を縮こめる。
わたしを邪魔者にしたかったのは、そうして腑に落ちる説明を求めた、わたし自身だったということか。
「そもそも、窓の灯を消したことがおかしいんだよね。灯りは点けたまま、こっそり部屋を出ればいい。杏理さんは窓の灯が消えて、咄嗟に動いたんだから。うん、ぼくだったらそうするよ」
ぼくだったら……、とくり返して、
「……そうか」
直己は頷いた。
「何かわかった?」
「……いま、ガレージで干している写真は、あの夜のものなんだよね?」
「え? うん……」
「ふーむ。じゃあ、夜のカフェを撮ったあの一枚も?」
「ええ、あの夜の……」
直己はしばらく天井を見つめ、考えをまとめる様子だった。
「わかったかもしれない」
「ほんとう?」
直己はわざとらしく、片目を瞑ってみせた。
「確かめにいこうか。そろそろ、写真も乾くころだ」
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