六
「久世の部屋はもぬけの殻だった。あとから管理人に訊いたら、家具の処分や荷物の運び出しは前日のうちに済ませてあったって。鍵は昼のうちに返されて、あとは幾つかの荷物を背負って、部屋を出るだけだった……」
けれどもわたしは、その瞬間を逃した。
アパートの廊下にへたり込んだことを、よく憶えている。コンクリートの冷たさも甦るようだ。
「その女性は誰だったわけ?」
「同じアパートの住人。一つ下の階の。誰かとすれ違わなかったか訊いても、戸惑った様子のまま首を横に振るだけだった」
「久世さんは、アパートの別の部屋に隠れたのかも……」
「そう思って、路地も含めてあたり一帯を捜したけれど、どこかに隠れたとか、潜んでいる様子はなかった。近所づきあいとかも、なかったはず」
「……ふーむ。なるほど。人間消失だね」
直己はそう云って大袈裟に肩を竦めてみせた。
「なあに、その表情。にやにやして」
「じっさい、興味深いよ。それに……」
「それに?」
「杏理さんは久世さんのこと、ほんとに好きだったんだなーって、思って」
からかってるんじゃないよ、と直己は慌てて付け加えた。
「恋愛的な意味に留まらず、さ。そのときの杏理さんにとっては、とても重要な存在だったんだろうなって思う。気づいてる? 杏理さんの口にする写真観って、いまの話を聞いたかぎり久世さんの受け売りか、久世さんへの反論ばかりだよ」
「……なんか、自分がいやになる」
「あはは。でも、師匠ってそんな存在じゃないかなあ。ましてやそこに、同い年の異性の友人であることが同居するなら、複雑な感情を抱くはずだよ。たぶん、久世さんにとっても……」
会ったこともない男に思いを馳せるように、直己は云う。複雑な感情、と曖昧にまとめたところで、わたしの話す久世の記憶は夫の立場として、快いものではないはずだ。けれどもそんなことなど抜きにして他者について考えることが、直己にはできる。ライターとして不可欠の強みだ。わたしが惹かれたのは、彼のそんなところだった。
「安心して」
「うん?」
「直己のこと、愛してるから」
わたしの言葉に、夫は声を立てて笑った。馬鹿にするのでない、気持ちのいい笑い。ひとしきり腹を抱えてから、ぼくも愛してるよ、と涙を拭いて云った。それに、と。
「こう云っては失礼かもしれないけれど……、杏理さんの話を聴いていて、久世さんと杏理さんはきっと、恋仲にはならなかったんじゃないかなあ、と思うよ」
「そう?」
「ふたりのあいだにはカメラしかない。カメラ、写真、現像……。杏理さんたちを結びつけているのは、良くも悪くもそれだけなんだ。唯一無二の関係である一方で、ある意味、友達より遠い。だから、カメラのフレームの外側、互いの人生のことになった途端、ぎくしゃくしてしまう……」
云われてみれば、と思う。わたしと久世は、写真についてならなんでも話した。けれども逆に、それ以外のことは話さなかった。わたしは彼の実家のことを知らなかったし、わたしも自分の家族のことなんて話さなかったはずだ。
わたしたちはたぶん、そこから先へ踏みこむことを恐れていた。
――ぼくはずっと、ほんとうの瞬間を逃しつづけてきた……。
そしておそらくは、わたしも。
「わたしが喫茶店で張りこんでいると気づいたとき、久世はもしかしたら、こう思ったのかもしれない」
ふと思いついて、わたしは口にした。
「ここでわたしに捕まったら、せっかくの覚悟が揺らぐ……。自惚れかもしれないけれど、わたしを目の前にしたら、カメラへの愛着が、その日々が、ぶり返してしまう。だからわたしの前から、なんらかの方法で、消えた」
直己の反応は鈍かった。
「なんらかの方法、とは?」
「さあ、それは……」
「それに、決意が揺らぐというのなら、電話もかけないんじゃないかな」
「……たしかに」
「でもやっぱり、杏理さんの云うようにそこが引っかかりつづけているんだろうね。久世さんの消失は謎に包まれている。その手段も、経緯も。だから、別れの整理がつけられない。わからないことが多すぎるから。逆に云えば、その真相がわかれば良いんじゃないかな」
「……どういうこと?」
「杏理さんがそんなにつらそうな顔をしなくても良いってこと」
少し考えてみようか、と直己は、仕事で取り組み甲斐のあるネタを見つけたときと同じ表情を浮かべた。
誠実に世界と向き合おうとするからこそ現れ出る、強い好奇心。
「これもまた喪だ。失われたひとを弔おうじゃないか」
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