五
しばらく、沈黙が互いを支配した。ノイズと呼吸音は途切れ途切れで、このまま会話が打ち切られるのではないかと思った。
「……カメラは辞めないよね?」
だから、わたしは訊きたいことを訊いた。
「それは……、どうかな」
「久世はまだ、カルティエ゠ブレッソンに届いてない。それなのに、辞めるの?」
「手厳しいね」
「でも、きっといつかは手が届く。久世なりの決定的瞬間に」
「ぼくはそんなに、大した写真家じゃない」
「謙遜はやめて」
「親父は、ぼくが趣味に現を抜かすのを許さないだろう」
「でも、そのお父さんが倒れたんでしょ?」
口走ってから、後悔した。
そういうことではないのだ。父親がいなくなればカメラを触ることができる、そんな単純な話ではない。久世の父は倒れ、死にゆこうとしている。そのことの重さを、久世は受け止めなければならないのだ。久世の人生はいま、彼がずっと覚悟していた方向へ、けれどもそこから逃げようとしてきた方向へ、大きく曲がって収束しつつある。それを受け容れる過程のなかで、久世の趣味もまた、いままで通りではいられない。
そのことがわかってもなお、わたしはまだ、彼をわかってやることができない。
不謹慎なことを云ったわたしを咎めるでもなく、かえって穏やかな口調で、しかし有無を云わせないように重く、久世は話す。
「カメラはつづけたい。でも、ぼくにとっては最初から、カメラは父から逃げるための手段だった。そしてぼくは、もう、逃げることは許されない」
「……逃げようよ」
「逃げてきて、いま、ここなんだ。このままどこまで行けるかも、どこまでしか行けないのかも、ようやく見えてきたところだった。ぼくに才能はないんだよ。ここらが引き際だ」
「それでも、カメラをつづけることはできる」
「うん。だから、やっぱりこれは、ぼくの納得の問題なんだね。いつかまたカメラを手に取ることはあるかもしれない。ただ、どうかな、つづけるとしても、辞めるのと同じくらいの覚悟がいる。ぼくは少し、時間がほしい」
このときのわたしはまだ、彼が結局、カメラを辞めることを知らない。カメラとフィルムの一式が納戸の奥へとしまわれてしまうことも。久世が二度とそれに触れることなく、早すぎる生涯を閉じることも。彼が下すひとつひとつの決断がどれだけ重いものなのか、わたしはずっと、想像することもできない。
――電話……、やめて……。
電話口の向こうで、そんな声が聞えた。
「誰かいるの?」
「……ごめん。また、メールするよ」
「待って」
久世は応えず、電話は途切れた。
直後に、メールが届いた。分量からして、いま書けたはずがない。あらかじめ書いてあったものをそのとき送信したのだとわかった。
――大学を辞めることにするよ。
メールは長々と、久世らしくもない率直な調子で綴られていた。故郷のこと。家のこと。大学で触れたさまざまなものや人、そして、そこから去る決意。また会おう。いつか話そう。別に今生の別れではないのだから。でも、しばらくは連絡しないでほしい。ホームシックになるといけないから……。
それから、これまた長い追伸があった。
――The Decisive Moment……決定的瞬間。その言葉はカルティエ゠ブレッソンの写真集に由来するけれど、写真集がフランスで最初に刊行されたとき、タイトルに付けられていたのは別の言葉だった。Image à la Sauvette……強いて訳すなら、〝逃げ去るイメージ〟。最近までぼくは、ふたつを似たようなものだと思っていた。逃げてゆくものを掴まえる決定的瞬間。そんなふうにね。けれどもいまは、フランス語版のタイトルは〝決定的瞬間〟とは似て非なる、あるいはネガとポジのような概念だと思っている。
思わず手が滑って書いている。そんな印象があった。語り口はいつもの久世に戻って、彼の声が聞えてくるほどだ。
――実のところ、写真家はその瞬間を、掴まえることができないのかもしれない。ほんとうに重要な瞬間はいつも、ぼくの目の前をすり抜けてゆく。カメラはその残像をなんとか掠め取ることしかできない。写真に定着しているのは、逃げ去ってしまった瞬間の痕跡でしかない。
わたしにはその一連の言葉が、彼の引退宣言に思われてならなかった。
撮った写真はあらかた処分した、と久世は書く。――出来が良いものはあのおじさんに託したけれどね。それを選定するなかで、つくづく考えさせられたよ。ぼくはずっと、ほんとうの瞬間を逃しつづけてきた……。
長いメールを読むあいだ、視界の端では、ずっと窓の灯を捉えていた。久世の影はまだそこにあった。
――要するに、ぼくにはやっぱり、ぜんぜん才能なんか無かった。
――杏理、ぼくはブレッソンなんてほど遠いんだよ。
――だからね。
――きみはいいかげん、ぼくから逃げるべきなんだ。
そのとき、影が動いた。姿が見えなくなり、灯りが消える。
紙幣をレジに投げつけるように放って、店を出た。
痴話喧嘩だよ、と誰かが云う。
窓から目を離したのは、その一瞬だけだったはずだ。
通りに、久世の姿はない。
「……どこ?」
車の往来に構わず、道路を横切る。ブレーキ。クラクション。通行人の肩とぶつかっても、視線の先は、久世が部屋から降りてきたならそこから出てくるであろう路地の入り口から動かない。
「どこを見てんだっ」
と、誰かが怒鳴るのを背に受けて、路地に足を踏み入れる。
奥は袋小路になっていて、街灯もなく、闇に沈んでいる。足音が聞こえる。誰かがいる。
「久世!」
けれどもその闇に向けて呼びかけたわたしに応えたのは、
「……はい?」
困惑顔の、見知らぬ女性だった。
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