四
コーヒーはすっかり冷めていて、それでも居座る権利を主張するために、わたしはその不味い液体をちびりちびりと飲みつづけた。喫茶店の窓際のテーブルは四人掛けで、ひとりで占拠するのは気が引けたけれど、眠たげな店主がこちらを気に留める様子はなかった。もっとも、これまでもずっとそうだった。何時間といても声をかけられないから、わたしと久世はよくこの店を溜まり場としていた。久世の借りているアパートがちょうど目の前にあるのも良かった。彼の家でフィルムを現像して、乾くのを待つあいだ、わたしたちはここで駄弁った。
いまは、ひとりだ。わたしはじっと、窓から見える景色に視線をやっている。
横に長く取られたガラス窓からは通りの往来が見渡せた。車道を挟んで対岸の歩道には時計店と古書店、レストランが並んでいる。どれもこの街にずっと昔からあるのだろう古い店構えで、看板は錆びついてこそいるけれど、どれも背が高くてよく目立つ。久世が住んでいるのは、時計店と古書店のあいだ、わたしの視界の奥へとまっすぐに細く伸びる路地へ入った、時計店の裏だ。狭い敷地に可能な限り人を詰めこめるよう部屋を積み上げた学生向けのアパートで、小さな商店街の背後から墓石のように無骨なその姿を見せていた。周囲の建物と比べて、ひょろりと高い五階建て。久世の部屋はそのてっぺんだった。見晴らしがいいんだ、と自慢にしていた。――エレベーターがないのは玉に瑕だけれど。
陽はとうに沈んでいる。いちばん上に見える窓には先ほどから灯りが点されて、カーテン越しに人影がちらちらと見えていた。忙しなく部屋を行き来しながら、ときおりじっと考え込むように立ち止まる。何をしているのかはよく見えないけれど、簡単に想像できた。きっと慌ただしく、荷造りをしているのだろう。
久世は、今夜中にこの街を発つつもりだ。
――彼、この街を出るんだってね。
その日の昼すぎ、フィルムを買いにいったとき。久世に教えられてからすっかり行きつけになったカメラショップで、店主は当然知っているだろうニュースを振るように、そう口にした。
――まさか、知らされていなかったのかい。
当惑した問いにかろうじて頷いたわたしの顔は、ずいぶんと間抜けだったろう。
店主から詳しく話を聴いてからつかの間、わたしはどう反応すべきかわからなかった。怒りと悲しみ。両者が混じり合った困惑。
店主は――豊かな髭をたくわえた老人だった――わたしに同情しながら、まあ、あの子の気持ちもわかってやってくれ、と慰めた。
――わかってやれって、どんな気持ちをですか。
自分の声が震えているのがわかった。
――そんなに重要なことをわたしだけに云わなかった気持ちですか。わたしに別れの挨拶もしなかった気持ちを?
――あの子はそんなに意地の悪いやつでもなければ薄情なやつでもない。それは杏理ちゃんがいちばんわかっているだろう?
――だけど。
――あの子はきっと、きみになんと云えばいいのか、ついに決められなかったんだよ。
何度も相談に乗ってやっていたんだがね、と彼はこぼした。
いずれ自分の人生が決定してしまう瞬間が来ること。いつになるのかわからないけれどもそう遠くないうちに、わたしから離れなければならないことを、なんと告げるべきか。久世はよく相談していたのだという。
それだのに結局、久世は何も話さなかった。
――どういうことですか、それ。
――今回のことは急だった。あの子も困っているんだよ。だからまあ、怒らないでやってくれ。
自身も困ったように云う彼は、まるで息子の不始末を釈明してやっているようだった。
この人はわたしよりも長い時間を久世と過ごしたのだと、そのとき気づいた。
――いまなら、きっと間に合う。発つのは今夜だと云っていたからね。さあ、急ぎなさい。
それでわたしはいまこうして、張り込みじみた真似をしている。
バスが停まって、また走り出した。時計店の前には停留所があって、その路線は市内をぐるり巡回している。久世は今夜、あの路線に乗って駅まで向かうだろう。
窓にはまだ人影が映っていた。
コーヒーを啜る。往来の雑踏も、店内のざわめきも、わたしはどこか遠くに聞いている。
ここまで来たのだから、久世の部屋まで直接訪ねてみるべきだ、そう考えもした。けれど足が動かないのは、彼にどんな言葉をぶつけてやるべきか、まだ決めあぐねているからだ。結局、窓の灯を確認してから、この店に入ってしまった。
なぜ話してくれなかったのか、問い詰めるべきだろうか。しかしわたしは、こうして自分の云うべきことを考えるなかで、彼がついに機会を逸してしまった理由を察してしまった。ふたつはたぶん、同じことなのだ。カメラショップの店主の云うとおり、久世もまた、ずっと機会を窺っていたのだろう。何を云うべきか、どう伝えるべきか、正解が見つからないままに、時間切れが訪れた。
窓辺の人影は、わたしと同じ逡巡を抱えているのかもしれない。
そう結論したとき、ポケットの携帯電話が鳴った。
着信相手を見てから電話を取るまでに、一瞬の躊躇いがあった。
「……いるんだろう?」
応答するなり、久世はそう切り出した。
「ぼくんちの前の店、窓際の席。さっき、顔も見えた」
わたしは視線をあの窓へ戻した。カーテン越しに、佇む人影。
「よく見えなかったけど、杏理なんだろうなってわかった」
「うん、正解。合ってる」
こちらの反応が見えるように、わたしは大きく頷いた。
姿を互いに確認しながら電話するのは、もどかしい感覚だった。久世の声は低く抑えられ、聞き取りにくい。ノイズも激しかった。
一方で、わたしは自分の声が明るくなっているのを感じた。情けないほどにわかりやすい。わたしは、こんな状況でも、久世と会話することが嬉しかったのだ。
「ねえ、こっちからも久世が見えるよ」
「……そう」
「窓辺に立ってる。久世からもわたしが見えるでしょう?」
「いや……、ああ、でも、まだそこにいるんだろうなってわかる」
「いるよ。ずっと、久世が出てくるのを待ってる」
「そっか。そうなんだね」
「だからさっさと降りてきてよ。コーヒー、奢るからさ」
「いや、それはできない」
「なぜ」
「もう遅いから」
「……なぜ」
聞き分けのない子供のように、わたしは問いを繰り返した。
「なんで、そんなことを云うの?」
「すぐにわかるよ」
「いま、ぜんぶ話してよ。ここに来て、さ。それが駄目なら、わたしがそっちに行ったって良い。……そもそも、なんでこんなに大事なことを、わたしにだけ黙ってたの?」
思わず荒げた声に、周囲の眼が向けられる。
「……いや、ごめん。そんなことはもう、どうでもいい」
声を落とす。
痴話喧嘩だよ、と隣席のカップルが話しているのが聞こえる。視線は再びわたしから離れてゆく。
感情の起伏が波のように、寄せては返すのを感じる。
「でも、何も云われないまま、もう遅いなんて突きつけられても、納得できない」
「……うん。ごめん。こっちこそ謝るべきだった」
いろいろ考えてはいたんだ、と彼は云う。
「どうであれ、いつかは帰るつもりだった」
「さっき、おじさんから、聴いた」
「退却が早まっただけのことさ。もう数年逃げきれば妹が家を継ぐかもしれないけれど、間に合わなかった。あの子はぼくと違って真面目で、優秀で、父さんのお気に入りだ。自分の家を大切に思っている。将来的にはわたしに任せてくれとも云っている。兄思いだね。でも、あの子はまだ思春期さえ訪れていない。自分の人生を決めるには早すぎる」
「だから、久世が継ぐの?」
「ぼくはもう、良い頃合いだよ。モラトリアムは終わるんだ」
「久世はそれでいいわけ?」
「とっくに納得してる」
「……わたしは?」
久世が、言葉に詰まる。
「わたしは、納得なんてできてないよ」
ごめん、と久世はふたたび謝る。
窓辺の人影は、相変わらず表情も見えない。
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