三
水を止める。じゅうぶんに洗ったフィルムを流し台から揚げて、リールから外す。クリップに留めて、あらかじめ用意してあった物干し竿に引っ掛ける。
そのとき、一枚の写真に目が留まった。
喫茶店を外から撮った写真だった。視点は高く、店の前の通りを含めて斜めに見下ろしている。夜。モノトーンのコントラストが強い。誰かが窓際の席についている。顔は庇に隠れているけれど、服装から、手先から、それが誰なのかじゅうぶんにわかる。なぜなら、それはわたし自身だから。
あの日の写真だった。彼がわたしの前から、姿を消した日の。
わたしは思わず視線を逸らした。そのまま写真を吊るし、あとずさる。
過去が、こちらを見ている。
つかの間乱れた呼吸を止めて、もういちど手を伸ばそうとした、そのとき、
「……いま、大丈夫?」
出し抜けに、声をかけられた。振り向くと入り口に、夫が立っていた。
コーヒーを淹れたよ、と彼は暢気そうに云い、近づいて来て、写真をしげしげと眺める。
「へえ、よく現像できてるじゃない」
「保管状態が、良かったから」
「久世さんだっけ。その人も浮かばれるんじゃないかなあ」
「……どうかな」
「うん?」
わたしの微妙な表情を察したのだろう。「お茶の時間!」と彼は云い、話を打ち切るように手を拍った。ぱしん。
「あとは乾かすだけだろう? じっと待っていても、気が滅入るだけだよ」
夫の
――恰好良い自画像がほしいんです。いや、クールじゃなくても良くって、こう……、ぼく自身をよく語ってくれるような、それでいてお喋りでもない写真。
難しい仕事ですね、とわたしが苦笑すると、
――でも、あなたの写真からはそれを感じた。沈黙と饒舌を、いっしょに。
仕事が終わってからも付き合いが三年ほどつづいて、昨年、籍を入れた。直己がフリーのライターとしてでなく、ひとりの社員としてWEBメディアの編集に加わることになったからだ。いまではわたしのエージェントも兼ねてくれている。工作全般が趣味で、知人から破格の安さで譲り受けたボロ屋をいまの家になるまで改装したのはほとんど彼の手による。最近は子ども向けに工作動画まで製作しはじめた。くよくよと考え込むことの多いわたしとは正反対の、活動的な人だ。細身だけれど筋肉質で、ひとつひとつの挙措が堂々としている。
手を動かしたいんだよ、と直己は云う。
――いろんなものを書いて、つくって、働いて、その結果が自分を跡づけてくれる。何者かになろうなんて考えている暇はないんだ。
いつかそう口にした言葉はしかし、直己がかつて、何者かになろうとして足掻いていたことを物語っている。
だから、たぶん……、わたしたちは正反対で、似たもの同士なのかもしれない。
そして、おそらくは、どこかで彼にも似ている。
「久世さんのこと、教えてよ」
コーヒーを注いだマグカップを差し出して、直己は云った。受け取って、ダイニングの椅子に座る。いつもは砂糖とミルクを少量、混ぜるけれど、きょうはブラックで飲み干したかった。味は苦く、香りは深い。凝り性の直己による、オリジナル・ブレンドだ。
「……どこまで、話したことあるんだっけ」
「元カレなんでしょ?」
「そんな……」
「違うの? ぼかしてるんだと思ってた」
直己はテーブルの隣に座った。
「違うよ。違う……。ほんとに、そんなんじゃなかった」
「そう。ごめん。それなら、大学時代の同期で、きみにカメラを教えてくれた人。それ以上もそれ以下も知らない」
「うん。それでじゅうぶんだよ」
「まさか!」
直己は首を振った。
「ほんとうにただそれだけなら、たった一本のフィルムのために、わざわざ半日割いて現像なんてするはずがない」
「…………」
「それに、そんな表情を浮かべることもない」
「……どんな表情?」
「泣きそうな顔」
「うそ」
「うん、それは嘘。強いて云えば、痛ましい顔、かな。記憶に背後から殴られたような」
直己の表現は、云い得て妙だった。
わたしは観念して、久世のことを話した。ごく個人的な思い出に終始したけれど、自分でも意外なほど、話すことに躊躇いはなかった。誰かに話したかったというよりは、無理にでも一度、記憶の蓋を開くことで、澱を吐き出したかったのだろうと思う。
写真のこと。現像のこと。疎遠だった時間と、渡された遺品。
「あれはたぶん彼が撮った、最後のフィルムだった」
久世の妹は、実家に帰ってきてから兄がカメラを触ろうとしていなかったと書いていた。たぶん死ぬまで、二度と触れなかったのではないか。
「そうまでして、写真から離れたかったのかな」
思わずこぼした言葉に、どうだろう、と直己は首を傾げた。
「凍結させたかったのかもしれない。写真が瞬間を永遠にするみたいに」
「恰好良いこと、云うのね」
「でも、写真ってそういうものだろう」
そう、久世も同じことを云っていた。時間の結晶。決定的瞬間。
――大学を辞めることにするよ。
あの夜メールで、久世はそう云ってよこした。
久世が大学を辞めたのは、実家に戻るためだった。土地が大きいだけで単なる農家だと久世は云うけれど、地元の村ではそれなりに名の知られた家らしい。その当主、久世の父が倒れた。長男である久世は家を継がなければならない。歳の離れた妹はまだ小学校を出たばかりで、ほかにきょうだいはいなかった。
時代錯誤な話だと思うのは、わたしが家というものから比較的自由に生きてこられたからなのか。同情も共感も拒むように、久世の文面はどこかさっぱりとして、諦めたような書きぶりだった。
――まあ、仕方ないのさ。いつかは来たるべき時だった。
久世が大学で文学を専攻することはその父親から強く反対され、カメラの趣味に耽っていることもいい顔はされなかったという。大学を出て独り立ちしたところで、いつかは家に帰らなければならない。久世は、ずっと覚悟していたのだ。この時間に終わりが来ることを。
あとから聴いた話では、久世の周りの友人知人には、あらかじめ知らされてあったらしい。ずっとお世話になっていたカメラショップの店主には、わざわざ挨拶に訪れたという。
わたしだけが、何も知らなかった。
「それで喧嘩別れしたわけだ」
話を聴かされてから、直己が云った。
「そりゃひどいよ。なんの説明もなくいなくなるなんて。恋人でなくたって、友人にする振る舞いでもない……」
「ううん、喧嘩はしなかった」
「じゃあ、メールが届いたっきり?」
「そういうわけでもない。久世が街を離れることを知って、わたしは彼を待ち受けた。久世の家の前で、張りこんで……」
「その場で何が起きたの?」
「……わからない」
「え?」
「何が起きたのか、わからない」
そう云いながら、ああ、それが問題なのだ、とようやくわかった。わたしの胸にずっとつかえていたのは、あの夜のことなのだ、と。
「……人が姿を消す。瞬く間に。そんなこと、あり得ると思う?」
「何かの比喩?」
「いいえ。文字通りのこと」
コーヒーを啜る。話すうちに飲むのを忘れていた、最後のひとくちだ。もはや味わいも香りも失われてしまったその冷たい苦みを、わたしはあの夜にも感じた。
瞼を閉じる。
遠ざかりつつあると思っていた記憶が、けれでもたしかな困惑と焦り、何より悲しさを引き連れて甦ってくる。あの日も、今日のような春の日だった。夜。喫茶店の窓際。視線の先には窓の灯がある。そこにはまだ、久世がいる。
「……あのときわたしは、ずっと久世を待っていたの」
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