竜の黄昏《ドラゴンシフト》③





「こんばんわ。私は、楪紅葉」


「あ、ああ……。こんばんわ……」


 確かめるまでもなく、自分から名乗ってくれた。

 やはり楪紅葉。

 無機質ながらも、声すらも透き通るように綺麗なんだな。どんだけ完璧なんだこいつは。

 それにしても、こいつはここで何をしていたのだろうか。

 誰かを待っていたのか?

 一度だけ後ろを見る。近くには俺達以外誰もいなかった。


「あなたを待っていたの。市ノ瀬悠くん」


「え? 俺を?」


「ええ。今朝、あなたを見かけたから。だからこうして待っていたの」


「今朝って……」


(あの交差点でのことか?)


 今の心境は実にシンプルだ。

 “何故だ”――?

 あの時は取り巻き集団を見かけただけで、楪紅葉とは話すどころか顔すら合わせてない。むしろ顔を見たのも声を聞いたのも、今が初めてだ。にも関わらず、こいつは俺を待っていたと語る。

 ここまで来ると、さすがに不気味さを感じる。楪紅葉の無駄に綺麗すぎる顔面が、余計に異質さを醸し出す。

 まるでツチノコが阿波踊りしながら出てきた気分だ。

 何を言ってるのか自分でもわからんが、とにかく驚いたということだ。


「そう怯えなくていいわ。あなたが私を知らないことなんて、十分わかっているから」


「……そりゃどうも」


「でも、私はあなたのことを知っている。知っているのよ、市ノ瀬悠くん」


「…………」


 こいつは、何を言っているんだろうか。

 言葉通りに受け取るなら、以前から俺のことを調べていた? なぜ? 何のために?

 まさか一目惚れだとか告白するためなんてことは言わないだろう。とてもそんな雰囲気じゃない。

 ただ、なんとなくだが、敵意のようなものは感じない。むしろ穏やかで、落ち着いていて、そして、どこか……――。


 ――バリィィィンッ!!


 突然だった。

 凄まじい音量でガラスが割れる音が響いた。

 到底皿一枚程度ではない。ビル程に巨大なガラス細工が割れるように、空間全体が震える程の巨大な音だった。


「な、なんだこの音!?」


「……空を見て、市ノ瀬くん」


「空って……え?」


 目を疑った。

 空に、割れ目が出来ていた。

 比喩表現じゃない。文字通りの意味で、空の一部が割れていた。

 そしてその隙間から、何かが漏れ出す。

 それは淀んだ紫色の液体だった。粘着質で、スライムのような見た目をしている。だが大きい。かなり大きい。そしてそれは、すこしずつ蠢いていた。 

 俺達が見つめる中、巨大なスライムは、ずるりと空から滑り落ちる。

 そして地面と衝突し、地響きと土煙を巻き起こした。


「なんだよ、あれ……何が起きてんだよ」


「変異しているのよ」


「変異?」


「あれは、別の世界から漏れ出た瘴気。この世界にとってはただの異物。形を持たず、物体ですらないただの概念。でもこの世界に顕現することで、それは形を成す。この世界の全ての物質を壊し、魔力マナに変えるために。その形態を、私達はこう呼んでいる――」


 いつしかスライムは形を大きく変え、変色し、ふくらみ、尖らせ、一頭の巨大な獣の姿へと進化を果たした。


「――、と」


「ドラゴン……」


『グオオオオオオオオオオン!!!』


 ドラゴンの咆哮が世界にこだまする。

 黄昏の空は全ての終焉を告げるかのように、赤く、ただ赤く、この世界と異界のドラゴンを染め上げていた。

 そのままドラゴンは暴れ始める。

 巨大な腕を振り回し、尾を走らせ、周囲にある建物を、人々を、世界そのものを壊そうとしていた。


「……俺、夢でも見てるのか?」


「残念ながら、紛れもない現実よ。それよりもいいの?」


「なにがだよ」


「ドラゴンが暴れている場所……あそこって、ちょうどあなたの学校がある位置じゃない?」


「―――ッ!!」


 気付いたら走り出していた。

 後ろで夜姫が何か言っていた気がするが、それどころじゃない。

 早く、何よりも早く、確かめたかった。無事な姿を見たかった。


(栞……栞……!!)


 ただ一つの願い。

 他なんてどうでもいい。ただただ彼女が無事であることを願う。

 しかし俺は思い知る。

 人生において、全てが願うがままにいくわけではないことを。


「……あ、ああ……」


 ――学校は、瓦礫の山になっていた。学校だけじゃない。

 民家も、マンションも、道路も、ありとあらゆる文明が、更地となっていた。崩れ、割れ、砕かれ、ついさっきまでそこにあったはずの日常は崩れ去り、瓦礫についた数多くの鮮血が凄惨さを物語る。


「し、栞……栞!」


 息をすることすら忘れ、瓦礫の中を駆け巡る。

 そこは、地獄だった。

 千切れた手足、爆ぜた胴体、散らばる無数の肉の破片。吐き気が胃の奥から突き上がって来る。生臭さに咽る。

 進めば進むほど、探せば探すほど、胸の中の絶望が広がっていった。

 そしてついに、俺は栞を見つける。

 そこは、俺達の教室があった場所だった。

 

「しお、り……」


 全身から全ての力が抜け去り、その場にへたり込む。

 栞は、巨大な瓦礫で体を潰されていた。

 小さな口からは大量の血が噴き出し、透き通るように白かった頬を赤黒く汚す。半開きの目は虚ろで、微かに涙の痕が見えた。


「嘘、だろ……どうして、こんな……」


 頭の中が真っ白だった。

 周囲がやけに静かで、心臓の音だけが響き、時の流れが緩やかに感じる。喉の奥が乾いて、首の後ろがひりつく。

 でもなぜだろう。これだけ悲しいはずなのに、悔しいはずなのに、涙の一滴すらも出ないのは。


『グオオオオオオオオオオン!!!』


 その中で聞こえたのは、ドラゴンの叫びだった。

 やけに満足気で、勇ましく、途轍もない。


「…………ッッッ!!!」


 その声が癪に障り、癪に障り、癪に障り、癪に障り、癪に障り……。


「ツラいものを見せてしまったわね」


 いつの間にか、背後には楪紅葉が立っていた。


「あなたを巻き込むつもりはなかったのだけれど……もう遅いわね。お詫びじゃないけど、あれは、私がなんとかするから」


「……倒す、ってことか?」


「そうよ。だからあなたは下がっていて。きっと今なら、全てが元に――」


「――ダメだ」


 心からの声が口から溢れる。


「ダメ?」


「ダメだ。ダメだ。ダメだ! あいつは、全部壊した! 街も、学校も、栞も……全部だ! だからあいつは、俺が……俺がこの手で……!」


「あなたの手で……なに?」


「…………ッ!!」


 言葉は、そこで止まった。

 楪紅葉は何も言わない。わかっている。「どうやって?」と思っているんだろう。わかっている。

 そんな方法なんてない。

 学校よりも巨大で、建物を積み木のように簡単に破壊する化物に、ただの非力な人間である俺が何をしようと勝てるはずがない。踏み潰されて挽肉になるだけだ。

 だったらこの気持ちはどうすればいい。衝動は。怒りや悲しみ、喪失感は。どうすれば解放される。満足できる。

 ……答えは決まっている。

 諦めること。ただの俺には、それしかできない。

 それがどうしようもなく悔しくて、情けなかった。


「……市ノ瀬くん。あなたが、あのドラゴンを狩りたいの?」


 楪紅葉は淡々と聞いてきた。


「……そりゃそうだろ。でも、わかってるよ。そんなの無理に決まって――」


「わかったわ。あなたの願い、私が叶えてあげる」


 楪紅葉は、淡々と言い切った。


「叶えるって……はは、どうやってだよ。そんなの、できるわけが……」


「……そう言えば、まだきちんと名乗っていなかったわね」


 そして楪紅葉は俺の前に移動して、少しだけ微笑んだ。


「私の名は、楪紅葉。魔導結社『魔導書グリモワール』に所属する魔女。市ノ瀬悠くん、ドラゴンを狩る力を、私があなたにあげる」


 





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