絶望と諦観、そして―――



 意識を失い、眠っている間に妙な映像を見た。

 夢かと思ったが、違う。



『レオポルド家の男は剣が誇りだ。魔物や他国の侵攻に怯えることなくその威を示すことこそが我らの役目』


『長男の『グランザリオ』は初めて剣を持ったその日に剣豪を打ち負かし、かの『剣聖』に師事することを許された。お前も私の息子ならば、できるはずだろう』



 5歳になり、剣術道場に連れてこられた日。

 さっきの赤髪オヤジ……父親から初めて剣を握らされた日の記憶。

 俺の記憶じゃない。俺は日本で剣なんか持ったことは一度もない。



『ラインハルト、お前の才を見せてみろ』



 それは『ラインハルト』と呼ばれる子供の記憶。

 レオポルド公爵家の、5歳になりたての次男。



『なんだその有様は! 立て! 剣を構えろ!』



 初めて剣術の訓練を受けた日。

 天才の兄の弟ならば同じように初日から剣の才を見せられるはずだ、なんて大きすぎる期待を向けられていた。


 兄は剣を振っている剣士たちの動きを見ただけで、剣を扱えるようになったらしい。

 次々と門下生の剣士たちを打ち倒していき、遂には師範代の剣豪からも一本をとったんだとか。


 それを、5歳になったばかりの僕に、同じことをしてみせろと要求している。



『情けないっ……! この恥さらしが!!』



 道場の門下生相手に何度も何度も打ち据えられて、とうとう立ち上がれなくなった時に父からそんな言葉で罵られた。

 こちらを見下すその目には、憎悪と怒りしかなかった。

 子供相手に、実の息子に向ける目じゃない。


 僕が、無能だから。

 僕が、出来損ないだから。

 これはきっと激励だ。僕はもっと頑張らないといけないから、厳しいことを言ってくれているんだ。

 ……そう信じていた。


 その日から、毎日のように道場に連れてこられては門下生に組手をさせられて、動けなくなるまで滅多打ちにされる日々が続いた。

 まともに剣術を教えてくれる人は一人もいなかった。

 門下生たちは兄に打ち負かされたことを根に持っていて、その恨みを自分に向けているのだと気付いたのはしばらく後だった。






『あれ? ラインは?』


『あんな愚図に我々と同席する資格はない。その無能さを反省させるために自室で食わせるようにした。分かったか、メリーナ』


『あははっ、かわいそー。でも仕方ないよね、ラインってばなんにもできない出来損ないだし』


『うむ、まったくだな』



 家族団欒の場に自分だけ同席することも許されなくなった。これまでのような豪華な食事に代わって、運ばれてくるのはクズ野菜の入った薄いスープと古びて硬くなったパンばかり。

 文句を言うことは許されなかった。逆らえば、それすら食べさせてもらえなかったから。

 毎日そんな食事が続いて、常に空腹で目が回りそうだった。


 ある日、朝起きたら僕の部屋の机の上に、サンドイッチが置いてあった。

 誰が置いたのか、そもそも食べていいものなのかなんて気にする余裕もなく、気が付いたら無心で頬張っていた。 

 何日ぶりかのまともな食事だった。それ以外になにも目に入らないくらいに夢中で食べた。



『あーっ!? お父様ー!! ラインが食べ物を盗み食いしてるわよー!!』


『なにぃ!? 今、なんと言ったメリーナ!』



 だから、その様子を見て父上に密告しようとしている姉……『メリーナリス』の存在に気が付かなかった。

 姉の叫びを聞いて、父上が鬼のような形相で睨みながら僕の顔を殴って怒鳴り上げた。



『……貴様ぁ!! 公爵家の末弟ともあろうものが、よくもまあそんな盗人のような真似ができたものだなぁ!! 貴様はしばらく食事抜きだ! 深く反省しろ、この愚物めがぁ!!』


『あはははは! ドロボーはとってもよくないことなのよぉ? これに懲りたら二度としちゃダメだからねぇ?』



 それから3日もの間、僕は水と切れた口から滲み出てくる自分の血以外のものを口にできなかった。

 断食明けにようやく与えられたのはクズ野菜のスープと腐りかけたパンだったけれど、それすら僕にとってはありがたいごちそうだった。


 ああ、そうか。

 これは、しつけの一環なんだ。

 どんなにつらくて苦しくても、決して貴族として恥ずかしい真似はしてはいけないという教訓を頭に刻みつけるための。

 ……決して、姉が意地悪に仕掛けた罠なんかじゃないはずなんだ。


 その日以来、専属侍女のメディアから与えられる食事以外は決して口にしないようになった。

 時々、机の上にソーセージとかハムにシチュー、上質なバゲットにクッキーやケーキなんかも置かれていたことがあったけれど、絶対に手を付けずに窓から捨てた。

 もう、僕はこんなものに目がくらんではいけない。どれだけお腹が空いていても、どれだけ美味しそうな匂いがしても、耐えた。




『メディア、ラインハルトの食事に費用をかけすぎていないか?』


『とんでもありませんわ。言われた通り、必要最低限に絞ってあります』


『そうか、この予算だと少し情けをかけすぎな気もするが、引き続き頼んだぞ』



 夜中に部屋の前で父が侍女とそんな会話をしているのが聞こえたけれど、これもきっとしつけの一環に違いない。

 『侍女が僕の分の費用を着服をしている』なんて言っても、『根拠もなく人を疑うとは何事だ』と怒られるのが目に見えている。

 簡単に人に向かって疑いの目を向けてはいけない、という戒めのためにあえて聞こえるように話しているんだ。

 ……侍女が机の影に隠している袋の中身が日に日に多くなっているのも、へそくりに見せかけた仕込みだ。そうに違いないんだ。




 ある日、長兄のグランザリオが道場の師範である剣聖相手に真剣勝負をするところを、門下生たちとともに見学することになった。

 自分が比較されている兄の実力はどれほどのものなのかと、目を煌かせながら。


 その勝負を見た時に悟った。

 アレは絶対に自分が辿り着くことができない境地なのだと。


 速さに足運びに剣の振るい方その他全ての要素の次元が違う。違い過ぎる。

 相手をしている剣聖ですら自分からしてみれば雲の上の存在だ。

 それをまるで赤子の手を捻るかのようにあっさりと打ち負かし、剣を弾き飛ばして首元に刃を突き付けた。 


 それを見ていた門下生たちは兄に向けて羨望や嫉妬の目を向けていたけれど、勝負が終わると兄は興味なさげに道場から出ていこうとしていた。



『よくやったグラン、それでこそレオポルド家の男だ。それに比べ『出来損ない』、貴様はいまだに門下生にすら一本もとれぬとは何事だ! 恥を知れ!!』


『……』



 兄の活躍を引き合いに出され叱責される僕をつまらなそうに一瞥だけして、さっさと帰路につく兄の背は絶望的なまでに大きく見えた。

 自分はあんなものと比べられていたのかと、理不尽にすら思えた。

 しばらくその背を眺めているところに、ふと、門下生たちが自分に憎悪の視線を向けているのに気付いた。


 ……ああ、あなたたちも同じ気持ちなんだね。

 分かるよ、すごく分かる。

 でもあんな怪物には絶対に敵わないから、その弟の僕にその鬱憤を向けるしかできないんだよね?


 その日の稽古はいつもより数段激しく打ち据えられた。

 痛みのあまり意識を失うまで、代わる代わる木剣が僕の体にめり込んだ。



 それからも、剣の才能がないと見限られるまで、毎日毎日毎日毎日、僕は―――――








 ……なんだこの胸糞悪い記憶は。

 家の教えが厳しいとかそれ以前の問題だ。

 これは躾なんかじゃない。どこをどう見ても虐待だ。毒親の親父の言葉を聞いているだけ吐き気を催す。

 ゴミじゃねぇか。親父も兄も姉も侍女も周りの連中も全員クズだ。


 メシもロクに与えずボロボロになるまで責め立てるようなやつのどこが親だ。

 それを黙って見ているやつのなにが兄貴だ。軽い気持ちでさらに追い詰めておいてなにが姉だ。

 侍女は主人のために働くのが仕事だろうが。そのための金を自分の懐に入れんなカス。


 このガキもなんでここまで我慢してんだ。

 身の回りの状況がおかしいことも分かんねぇのか? いくらガキでもそこまでアタマ悪くねぇだろ。

 ……なにか、この家族に負い目でも感じてるのかよ?


 この子は……『ラインハルト』はそんな扱いにこれまで耐えていたっていうのか。

 努力はいつか報われるとすら期待せずに、まともに生きることを諦めて。

 反吐が出るわ。オロロロロ。


 その後もしばらくラインハルトの記憶が、まるで映画のように目の前に映し出されていった。

 ……ひどいクソ映画だ。まだ空飛ぶサメでも眺めてるほうがマシだぞこりゃ。








 すれ違う際にこちらからの挨拶を無視して、ただ睨むように一瞥だけしていく兄の映像。


 父に罵られている自分を嘲笑い、追い打ちをかけるように小馬鹿にしてくる姉の姿。


 質素な食事を運んでくるたびに『汚い』『みすぼらしい』『片付けるのが遅れるから早く食べてください、ノロマが』と主人への経緯なんか微塵もない侍女の汚言。

 それにくわえて毎日剣の稽古による殴打、それ以外の時間は公爵家の人間として遊ぶ暇も与えられず鞭の止まない座学ばかり。



『なぜこんなことも分からないのですか!! この出来損ない!! クズ!! 穀潰し!!』


『私の評価に響くでしょうが!! さっさとこれくらい頭に入れなさいこのゴミ!!』



 勉強中に少しでも言い淀むと、侍女はすぐに鞭を振るった。

 何度も何度も叩かれて、僕はそのたびに謝り続けた。

 まるで罪人のように、蹲りながら『ごめんなさい』と繰り返し続けた。 


 ……とても6に満たない子供にする扱いじゃないだろう。

 みるみる痩せて、やつれて、気が付いたらまるで枯れ枝のように脆く頼りない四肢がついているだけの貧相な体になってしまっていた。





 それでも耐えられていたのは、一つの望みがあったから。



『お前には失望した、剣についてはもう期待せん。お前が6歳となる日に魔法の素質をみる。それに合わせた進路につくがいい、出来損ないが』



 レオポルド家では剣に重きを向けていて、魔法を若干軽視する傾向があった。

 先々代レオポルド公爵は、敵のあらゆる魔法を剣一本で切り裂きねじ伏せたという逸話があるらしい。

 果ては向かう敵を全てなぎ倒し、遂には一大領地の主となったとか。


 それにあやかり父は剣を重視していて、現に兄は先々代の再来と呼ばれるほどの剣士へと成長を遂げていた。

 自分にはそれだけのものになれる素質がなかった。ただそれだけのこと。


 けれど、魔法さえ使えるようになれば。

 自分にも価値があると認めてもらえるかもしれない。

 レオポルド家の男としてなんて分不相応なことは言わない。

 ただ、一人の人間としての価値くらいはあると―――




 最後の望みをかけて、僕は6歳の誕生日を迎えることに臨んだ。


 そしていよいよ訪れた誕生日に、魔法協会の魔術師が我が家に訪れて、僕の魔法の素質を鑑定した。


 天気はあいにくの雨。

 魔法の素質を鑑定する儀式は外で行うのが通例とはいえ、雨に打たれながら行うのは痩せこけた体には堪えた。



『では、始めます』



 いよいよ魔法鑑定の儀式が始まった。

 魔術師が僕の手を握ると、全身に魔力が送り込まれていく感覚がある。

 全身に葉脈のようなあみだくじのような魔法の回路が浮かび上がり、光が迸っていく。



『どうだ? こいつはどのような魔法が使える?』


『これは……わ、分かりません。『高速化魔法』のようですが、しかし制御回路が複雑すぎる気が……』



 僕を鑑定している魔術師が、驚いているような困惑するようななんとも言えない表情でブツブツと呟いている。

 どうやら随分と珍しい素質のようだけど、いったいどんなものなんだろうか。



『能書きはいい。実際に魔法を使わせてみれば分かるはずだ。おい、試しに魔法を使ってみろ』



 父に促され、実際に魔法を使ってみることになった。

 鑑定してもらうまでは魔法の使い方なんてまるで分からなかったのに、今ではどう使えばいいのかなんとなく分かる。


 自分の腹の奥に満ちている魔力を、今開いたばかりの回路に通して、蓋を開いて外へと放出する!




 その瞬間、一瞬だけ雨の勢いが強くなった。




 ……?


 あれ?



 なにも、起きない……?




『おい、ふざけるな。魔法を使ってみろと言っただろうが。ボサッとしていないで早くしろ!』


『いえ、魔法が発動したのを確かに感じました。なんらかの効果を発揮したはずです』


『現になにも起きていないではないか! おい、もう一度やってみろ!』



 今のは違う、なにかの間違いだ。

 きっと初めてだから失敗してしまっただけだ。

 もう一度、もう一度やれば、きっとなにかが……。

 縋るような気持ちで再び魔法を発動させた。


 しかし、やはり一瞬だけ雨の勢いが強くなっただけで、他にはなんの変化もない。

 『なにをやっている』と怒鳴る父に、少しの間だけ雨の勢いが強くなったことを伝えたけれど『なにも変わっておらんではないか、見え透いた戯言を抜かすな』と返されるばかり。


 それを聞いた魔術師が、ある仮説を口にした。



『もしかしたら、ラインハルト殿は一瞬だけ自分自身の時を遅くする……『低速化』する魔法を使っているのかもしれません』


『低速化、だと……?』


『『自分自身の時を高速化』する魔法属性のようですが、雨天で『高速化』魔法を発動した者は降ってくる雨が緩やかに感じられるそうです』


『しかし、こいつは激しくなったと言っているぞ』


『高速化とは逆のベクトル、つまり自信を『低速化』する効果の魔法ならば説明がつくかと……この複雑な回路は、おそらく高速化の効果を反転させるためのものだと考えられます』


『なんだそれはっ!! 自分を遅くするだけの魔法だと……!? そんなもの、なんの役にも立たないではないかぁ!! どこまでっ……どこまで無能なのだ貴様は!!』



 魔術師の説明を聞いた父が怒りに歪んだ表情で叫び、僕の顔を殴った。

 地面に倒れ、痛みのあまり蹲った。


 こんな魔法、父上の言う通りなんの役にも立たない。

 最後の望みでさえ、僕にはなんの取り柄も価値もなかった。





『お前さえ、お前さえ生まれてこなければっ…………■■は……!』





 倒れこむ僕を見下ろしながら、父上が小さな声でなにかを呟いたのが、聞こえた。


 雨音が響いていても、はっきりと聞き取れてしまった。



 父上の本心を。






 そして悟った。



 僕は、生まれてくるべきじゃなった。

 生まれてこなければよかったんだ。 




 ああ、やっぱり僕に生きる資格なんてなかったんだ と。






 ……そうして僕は、生きることを諦めた。

 なにもかもどうでもよくなって、もう、ぼく、は―――



















 そこに、なんの冗談か日本で死んだはずの俺が入り込んだってワケか。

 ……えー、そんなことある……?


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